「相続放棄」の件数が年々増加している。司法統計によると、2023年に全国の家庭裁判所が受理した件数は、27万5222件。2003年が13万6556件だったため、20年で2倍以上の数になったことになる。
これだけ相続放棄が増加している背景には、高齢者の一人暮らしが増えていることが挙げられるだろう。
親が亡くなった際、財産によっては固定資産税などといった税負担が生じる場合もあり、コストや管理の難しさを理由に相続を放棄するケースが多いという。
そして、別のケースとして考えられるのが、そもそも家族や親族との関係が希薄な人が孤独死したケースだ。
それほど財産を持っていない場合、面倒な手続きをするぐらいなら、相続放棄を選ぶという人も少なくないだろう。
しかし、ある火災をきっかけに、番組制作会社に勤めるテレビディレクター、落合陽介ギフレ(44)に降りかかった相続問題は、少々複雑だった。それは単なるお金だけの問題ではなく、彼の人生にも深くかかわる問題だったためだ。
相続とは何か? 家族とは何か?
同じ会社の先輩ディレクターと後輩である私は、ギフレの心の葛藤にカメラを通して寄り添うことにした。
炎の中で死んだ父を僕は知らない
2024年4月11日。長野市松代町の木造2階建て住宅を焼く火災が発生し、現場から1人の遺体が見つかった。
この記事の画像(6枚)亡くなったのは、落合皎児さん(こうじ・享年76)。ギフレの父だった。
皎児さんは1980年代、スペインで脚光を浴びた画家だった。
ピカソやミロと並び、「スペインの現代作家150人」に選ばれるほど高く評価されていたという。1980年にギフレが生まれたのもスペインだ。
しかし、ギフレは父である皎児さんのことをよく知らない。日本に帰国した4歳以降、ほとんど共に暮らしていなかったためだ。
帰国当初は注目を集めていた皎児さんだったが、作風の変化などで次第に評価を失い、生活は困窮していく。夫婦関係も悪化し、自宅と同じ敷地にある建物での別居生活が始まると、皎児さんは酒に酔っては母とギフレが住む家に押しかけた。
幼いギフレは、皿が割れる音を耳をふさぎながら耐える日々を過ごした。
その後、弟が生まれるものの、皎児さんが家庭を顧みず創作に没頭する姿を母は嫌った。
そのためギフレは「父と一緒にご飯を食べたり、お風呂に入ったりした記憶はほとんどない」という。
そして、ギフレが12歳の時、ついに両親は離婚。母は自宅で学習教室を開き、女手一つでギフレと弟を育てた。
教育熱心だった母の勧めで、ギフレは神奈川の中高一貫校に進学し、寮生活を送った。
しかし高校3年生の頃、「学費が支払われていない」という連絡を受けて帰省すると、母は精神を病み、自活できない状態に陥っていた。
経済的な支えを失ったギフレは、新聞奨学生として大学へ進学する道を選ぶ。一方、弟は児童養護施設に預けられることとなった。
しかし、家族の不幸はそこで終わらなかった。
ギフレがテレビ業界で働き始めた頃、弟も精神を病み、20歳で命を絶つ。そして8年前には、一人暮らしをしていた母が孤独死する。
発見された時には、すでに死後1カ月以上が経っていた。
その頃から、父は昼夜を問わずギフレに電話をかけるようになった。話の内容は後悔や愚痴がほとんど。どうやら酒に溺れる日々が続いていたらしい。
ギフレに金銭を無心することも増え、最初は応じていたギフレも、不平不満ばかり口にする父に次第に耐えきれなくなり、2年前から連絡を完全に断つようになった。
警察から火災発生の連絡を受けたのは、そんな時だった。
「絵を相続すれば借金も相続。借金を放棄すれば絵も全て放棄」
皎児さんの突然の訃報に、ギフレは都内から現場に駆けつけた。
すると、自宅の隣にある3階建てのアトリエは無事だった。中に入ってみると、およそ1000点もの絵画があった。
ギフレにとって父の絵は、家族を壊してしまった象徴だった。父のことを深く知らないギフレには、それが価値があるものなのか、それともただのゴミくずのようなものなのかもわからない。
ただ、その後、はっきりしたのは、皎児さんが残したのは約1000点に及ぶ絵画だけではなかったということだ。およそ1500万円の借金があったのだ。
民法では、配偶者や子どもたちが一切の遺産を相続することになっている。一切の遺産には、当然、借金のようなマイナスの遺産も含まれることから、相続放棄を選択することもできる。
「絵を相続すれば借金も相続。借金を放棄すれば絵も全て放棄」
ギフレは幼い頃の家庭環境が荒れていたこともあり、「普通の家庭」への強い憧れを抱いていた。
18歳の時に出会った女性と31歳で結婚。その後、生まれた娘とともに穏やかな生活を築いていた。平凡で幸せな家庭を守るため、「父のようにはならない」と自らに誓いながら生きてきた。
家庭のことを考えると、1500万円の借金を相続することは現実的ではなかった。
しかし、一方で、父が遺した大量の絵画を簡単に処分するという決断もできなかった。
「俺の人生をめちゃくちゃにした。お母さんも弟もめちゃくちゃになって死んでいった。その原因となったこの絵がゴミのようなものだなんて思いたくない」
強烈な臭いが漂うアトリエ
私たち取材班が初めて長野市松代町のアトリエを訪れたのは、火災からおよそ1カ月が経過した5月中旬のことだった。
アトリエの中は、かつてスペインで画家として輝いていた皎児さんの面影はなく、ひどく荒れ果てていた。埃をかぶった大量の絵が乱雑に積まれ、床に散乱した飼い犬の糞の臭いが湿気と暑さに混じって漂っており、強烈に鼻を突いた。
アトリエ全体にどこか悲しさや苦しさが染み込んでいるような雰囲気があり、まるで皎児さんが、ここで時を止めたまま動けなくなってしまったかのような印象を受けた。
正直、この時の私には皎児さんの絵にどれほどの価値があるのか、想像することが難しかった。
しかし、ギフレは父の人生を巡る決意を固めていた。
「家族を犠牲にしてまで描き続けた絵とは、いったい何だったのか。この絵に向き合うことで、通過儀礼として『さようなら』を言いたい」
「父のことをなんでも教えてください」
ギフレの旅は5月中旬に始まり、9月末までの約4カ月間続いた。
父のアトリエで見つけた日記を頼りに、「父のことを何でも教えてください」とお願いしながら、60人以上の人々を訪ね歩いた。
父と親しかった額縁店の店主は「根っからの絵描きで、頭のいい人だった」と語り、父の絵を20点以上持つ女性は「こんな素敵な絵なのに評価されなくて悔しかった」と嘆いた。
父の芸術家の知人は「50年後にはゴッホになるかもしれない。捨てるなんてありえない」と評価してくれた。
父を知る人に会うたび、ギフレの中で「絵を守りたい」という思いが膨らんでいった。
「家族に迷惑をかけずに絵を守る方法はないか」
模索したギフレは、アトリエを貸し出して家賃収入で借金を返済しようとしたが、不動産会社からは「建物の状態が悪すぎる」と言われ放棄を勧められた。さらに、オークション会社にも相談したが、「死後に絵の価値を高めるのは難しい」と一蹴される。
ギフレは過去の大切なものと未来の守るべきものの間で葛藤していた。
「コウジには驚くべき才能があった」
そんな中、状況を一変させる出来事が起きた。「財団を作って絵を守りたい」と語る坂井大志さんとの出会いだ。
「絵は絶対に手放してはいけない。財団を設立し、多くの人や企業を巻き込んで支援を集めよう」
坂井さんは熱を込めて語った。ギフレは初めこそ慎重に話を聞いていたが、坂井さんの行動力を目の当たりにするうち、彼を信頼するようになった。
力強い仲間を得たギフレは、父が最も評価されたスペインとスイスへ父の絵の価値を確かめる旅に出た。
ギフレは父が在籍していたとされるバルセロナのアトリエ「Studio46」を訪ねた。
そこはピカソ、ミロ、ゴヤ、ダリといった巨匠たちが作品を手掛けた歴史的な芸術の舞台裏であり、世界中の芸術家たちが憧れる名誉あるアトリエだった。
1980年代、そんな由緒ある場所で、皎児さんはミロの版画制作を支えた「刷り師」をしていたという。
アトリエのオーナーは「コウジがここで働いていたのは偶然ではない。彼の作品が持つ力が、ここに彼を導いたのだ」と教えてくれた。その言葉には、皎児さんの才能への深い信頼が滲んでいた。
さらに、アトリエオーナーの妻・グイダさんとの出会いは、ギフレにとって特別なものとなった。幼い頃から「ギフレ」という名がついた経緯を深く知らないまま育った彼に、グイダさんはこう語った。
「その名前は、お父さんが先代のオーナーにお願いして付けてもらったカタルーニャの名前なのよ」
ギフレという名前には、皎児さんの芸術家としての誇りが込められていたのだ。
スイスでは、父が契約していた画廊のオーナー、オルランド・ブランコさん(94)との出会いが待っていた。オルランドさんは、かつてミロやピカソとも親交を持った一流の画商であり、ギフレにとって父を知る上で重要な人物だった。
オルランドさんの倉庫に保管されていた皎児さんの作品を目にした瞬間、ギフレは息を飲んだ。
これまで見てきたどの作品よりも、圧倒的な迫力があり、細部まで緻密で、洗練されていたからだ。
オルランドさんは静かに語り始めた。
「コウジには驚くべき才能があった。芸術家にとって、売れる売れないは本質ではない。彼は間違いなく重要な芸術家だった。だから家族が二の次になるのも仕方がないんだ」
その言葉は、皎児さんの生き様を肯定しつつ、芸術家が背負う業(ごう)の深さを突きつけてくるようだった。ギフレにとっては、父の生き方をようやく理解できた気がする一方で、自分たち家族がその芸術に翻弄されてきたことへの複雑な感情があったに違いない。
ただ、それでも、父が全てを捧げた芸術には確かに「本物の価値」があったのだと、確信を得られた瞬間でもあった。
「さようなら」を告げられた瞬間
旅を終えたギフレは、坂井さんたちと協力して「落合皎児追悼展」実行委員会を立ち上げた。父が過ごした長野市松代という町全体を巻き込みながら、絵の価値を発信する活動を始めたのだ。
地元・松代町にて10月12日〜18日の1週間にわたって開かれた追悼展には、250人以上が訪れた。
父をよく知る人もいれば、これまで父を知らなかった人も、その作品を見てみたいと来場してくれた。集まった人々が語る父の思い出や、作品に向けられる優しい眼差しを見て、ギフレはこれまでの旅に大きな意味があったことを実感した。
旅を終えたギフレは「父に対する、恨みつらみという余計な感情が落ちていって、残ったのは純粋な『好きだよ』という気持ちだけ」と教えてくれた。
母、弟、そして父。家族の誰にも「さようなら」を言えなかったギフレが、家族に「さようなら」を告げられた瞬間だったのだろうと、私は感じている。
相続放棄の期限は2024年12月31日まで。
相続するか放棄するか、まだ結論は出ていない。それでも、決断するための心の整理は十分についたに違いない。
(取材・記事/宗田祐佳)
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