【茶類】札幌で1946年に創業し、道民の体と心を温め、親しまれてきた日本茶販売業の「大森園」。近年は繊細な香りと味わいの楽しみ方を若い世代に発信している。代表取締役の大森由美子さんに暮らしに潤いを与え、人間関係も和ませるお茶の魅力を聞きました。

店の茶箱が「ゆりかご」代わりだった幼年時代

――ご出身はどちらですか? どんなお子さんでしたか?
札幌です。やんちゃな子どもで、(親の目が届かないほど)走り回るのでお茶箱に入れられて育ちました。
――お茶屋さんの娘さんという感じですね。
家と店舗が一緒なので、(家業が)お茶屋さんだと分かっていましたが、お茶は好きではありませんでした。子どもの好きな飲み物はやはり牛乳、麦茶、トマトジュース。お茶を売る仕事に就くとは思っていませんでした。
――どういう学生時代を過ごされましたか?
やりたいことがなくて、何となく大学に進学し、つぶしのきく簿記の資格を取りました。ゼミで東南アジアの経済を勉強して東南アジアに興味を持ち、シンガポール航空に入りました。
――CA(客室乗務員)ですか? どういう生活をされていましたか?
シンガポールに移住して訓練を受け、日本人の利用の多い路線に配属された感じがします。毎回、違うスタッフと仕事をし、毎日15人ほどの人に「初めまして」とあいさつをします。お客さまも毎回、違って肉体労働です。シンガポールには丸5年間いました。

祖母が病床で語った人生 戦前戦後を生き抜くたくましさに心打たれる

――その後はどう過ごされましたか?
ちょうど年頃だったので結婚し、シンガポールから日本に戻りましたが、1年半で離婚し、その後は5年間ほど東京で海外のツアーコンダクターの仕事をしていました。
――札幌に戻ったきっかけは?
創業者である祖母が末期がんで、余命いくばくもないと診断されました。祖母の介護のため休職し、札幌に数カ月間、戻って自宅で世話をして看取りました。祖母から、若い頃の話や、戦前戦後に経済的に大変だった仕事の話など、いろいろと聞きました。祖母がこういう思いで始め、大事にしてきた店であれば、私がやりたい―と強く思いました。
――その話の中で、経営者になった今も心に残るものはありますか?
会社経営で一番切実なのはお金の問題です。祖母は預金封鎖や、農地改革でこんなにあった財産が、あっという間にゼロになる経験をしました。私がいろいろと悲しみ、苦しんでいると、「そんなことでいちいち悲しんではだめだ」とよく言われました。


時代の逆風が吹く中、店舗再編し、生き残ろうと決意

――札幌に戻ってきて、どういう仕事をされましたか?
当初は店に立ったり、いろんなテナント店に行って販売の手伝いをしたりです。ラッピングやお掃除などの雑用から経理まで一通り全部しましたね。客室乗務員の仕事は全部(事前に)用意されており、制服を着て限られた時間に働くだけでした。(与えられた)これだけをやれば良いという仕事。今の仕事は自分で操縦しながらトイレ掃除もし、食事も出して下げて、その一方で、飛行機のメンテナンスをして、営業やプロモーションもする―。何でもやらなければならない感じがします。
――どういうきっかけで会社を継いだのですか?
10年から15年ほど前に起きた百貨店の閉店ラッシュや、テナント店の撤退など、業界は時代の流れに飲み込まれました。採算の合わないところは思い切って閉じてコンパクトにして、業界の中で何とか生き残ろうと思いました。10年前に店舗を移したり、規模を小さくしたりして今に至ります。
――店舗を小さくしたときは、社長をされていたのですか?
ちょうど、その(経営を転換する)きっかけに社長に就きました。
――経営者になると見える世界は変わりますか?
客室乗務員のときは「今日もエコノミークラスが満席で、大変だ」と思っていましたが、今は「満席ありがとうございます」―という気持ちで働いています。もう一つ感じるのが物の見え方です。いろいろなところに目を向けないとやっていけないと思います。


お茶をあまり飲まない若い世代に、繊細な香り、味わいを伝える

――今、どういうことに力を入れていますか?
お茶がなかなか飲まれなくなっています。多くの方に本来のお茶の入れ方、お茶の良さを伝えたいと思います。コロナ禍の前までは、小学生向けのお茶のイベントなどを企画・運営し、お茶の教室を小規模で開催し、お茶に親しんでもらえるよう努めていました。感染拡大で開催できない時期がありましたが、今はおうちで急須を使ってお茶を入れて、楽しむ方法も伝えています。最近は飲食店さんから、メニューの一つとしてお茶を使いたいというご相談に応えられるようにしています。
――家でお茶を入れたことない人が本当に増えているそうですね。
大学で担当する授業では初回に、学生さんに「おうちに急須がありますか」と尋ねています。「ある」と手を挙げるのは本当にパラパラです。ただ、急須で入れたお茶を味わうと、「こんなにおいしいとは」と感激することが多く、うれしいです。


北の大地に茶畑を 創業100年に向けて膨らむ夢

――ボスとして、どういうところに気をつけていますか?
一番大事なのはやはりコミュニケーションや、雰囲気づくり、環境づくりだと思います。以前の職場では、すごく忙しいとき、よくできる上司はみんなの分の飲み物をさっと用意しました。働きやすい環境を整える人にたくさん出会いました。それを見習いたいと思って、うちではパートさんが出勤すると、私がお茶を入れて「お疲れさまです」と声をかけています。仕事の最初と最後、休憩時間などには私がお茶を入れてお菓子を用意し、みんなと一緒に働きやすい環境を心がけています。
――そうした心遣いをうれしく思ったからこそ、社長自らお茶を入れているのですね。
忙しいときに、特に上の人がピリピリすると、(雰囲気が)怖くなって良い仕事ができなくなります。逆に、ムードメーカーがいると、その場の空気がやわらぎます。
――会社とご自身の未来をどう描かれていますか?
お茶の木を10年ぐらい前から育てていています。北海道でお茶の木は育たないと言われていますが、いろいろと実験をして、まだ5本ぐらいですが、路地での越冬に成功しています。(将来は)札幌でお茶畑を作ってみたいと思っています。
――お茶を売るだけではなく、お茶の木を育て、お茶を飲む文化をつなげることも本当に大切にされているのですね。
そうです。

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