戦後79年の「慰霊の日」。県内各地で追悼式が執り行われ、多くの人が戦没者の冥福を祈り、恒久平和を願った。太陽が容赦なく照り付ける中、糸満市の「平和の礎」や「魂魄(こんぱく)の塔」では、日傘を差した遺族らが、花や線香を供えて手を合わせた。戦争で命を落とした家族の思い出を子や孫に聞かせる姿も。20万人を超える犠牲を出した沖縄戦の記憶をつないだ
戦没者の冥福を祈るため、壕を訪れた家族連れ=糸満市摩文仁・沖縄師範健児之塔(金城健太撮影)二中健児の塔
塔に手を合わせて戦没者を追悼する遺族ら=23日、那覇市楚辺・二中健児の塔那覇市楚辺 約150人
翁長芳子さん(84)=那覇市 県立二中の教員だった父(仲地善吉さん)を追悼しようと毎年来ている。遺骨も見つかっていないので、塔の刻銘はありがたい。今も世界各地で戦争が起こっていて、つらい。特に若い世代は平和についてたくさん考えてほしい。
ひめゆりの塔
沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒を追悼する参拝者=23日、糸満市伊原・ひめゆりの塔糸満市伊原 170人
本永一馬さん(68)=浦添市 伯母はひめゆり元学徒の狩俣キヨ。陸軍病院南風原壕で亡くなった。足に被弾し動けなくなったと聞く。19歳だった。元学徒たちから伯母の最期を聞いて胸が痛んだ。戦争はあってはならない。子や孫に語り継いでいきたい。
開南健児之塔
開南健児之塔に手を合わせる参拝者=23日、糸満市山城・開南健児之塔糸満市山城 自由参拝
安里喜隆さん(76)=北中城村 10人きょうだいのうち4人を沖縄戦で亡くした。18歳の頃から手を合わせに来ている。平和を継続させることは何よりも難しいよ。今は沖縄戦を語り継ぐのが私の務めだと思っている。だから4人には安心して眠ってほしい。
平和の礎に刻まれた名前を鉛筆でなぞる女性=糸満市摩文仁・平和祈念公園(喜屋武綾菜撮影)梯梧之塔
梯梧之塔に手を合わせる吉川初枝さん=23日、糸満市米須糸満市米須 自由参拝
吉川初枝さん(96)=西原町 戦争で艦砲射撃に当たった弟を亡くした。母は爆風で耳から血を流し、自分も背中に弾のかすった傷が今も残っている。人間が人間じゃなくなるのが戦争。争いのない世の中を続けていってほしい。そのために、体験を語り続ける。
南燈慰霊之塔
手を合わせ、鎮魂の祈りをささげる参加者ら=23日、名護市大西・南燈慰霊之塔名護市大西 約220人
大城幸夫さん(95)=名護市 県立三中の3年生で入隊し、八重岳などで部隊間の連絡網を確保する通信隊にいた。切れた電話線をつなげるため山中に駆り出され、友人2人が艦砲射撃の犠牲に。私も連日の艦砲で腕を負傷した。体験を語るのは苦しいが、伝えねば。
島守の塔
島守の塔に向かって黙祷する参列者=23日午後1時半すぎ、糸満市摩文仁糸満市摩文仁 約80人
宮城真治さん(65)=那覇市 母の弟は県庁職員だったが海軍に召集され、銃剣も武器もない中で切り込み隊となり糸満市で戦死した。母が弟のことを打ち明けたのは28年前。ずっとつらかったのだろう。戦争の悲惨さを多くの人に伝え続けていきたい。
ひめゆり学徒隊だった姉を沖縄戦で失った90代の女性。「慰霊の日」には毎年、遺影に会いに訪れるという=糸満市伊原・ひめゆり平和祈念資料館(金城健太撮影)沖縄師範健児之塔
亡き兄の昇さんを追悼する小濱善市さん(左)=23日、糸満市摩文仁・沖縄師範健児之塔糸満市摩文仁
小濱善市さん(85)=本部町 長男(昇さん)に会いに来た。兄が戦死したとき僕は5歳。優秀で、おとなしいが人に優しかったと聞いている。幼かった自分は兄の顔を覚えていない。戦争は兄との思い出までも奪った。兄の人生を思うと本当にやりきれない。
沖縄工業健児之塔
正午の黙とうで手を合わせる参列者=23日、糸満市摩文仁・沖縄工業健児之塔糸満市摩文仁 自由参拝
渡嘉敷真盛さん(85)=豊見城市 家族で宮崎へ疎開していたため無事だったが、先輩方は戦争に強制的に協力させられ、無残な最期を遂げた。今の現状を見ると、この国がどこに向かっているのか気になる。これからも慰霊を続けなければならない。
故障した「平和の火」を照らす朝日=午前5時46分、糸満市摩文仁・平和祈念公園(竹花徹朗撮影)鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。