第二次世界大戦末期、国策に従って旧出石郡高橋村(現・豊岡市但東町)から旧満州(現・中国東北部)へ移住後、逃避行の末に集団入水自決などで346人が亡くなった「大兵庫開拓団」の慰霊祭が17日、但東町内で営まれた。元団員の参列者は年々減り3人となる一方、元団員を親に持つ2世らは「悲劇を語り継ぎたい」との思いを胸に参加した。【浜本年弘】
大兵庫開拓団は、1943年8月にあった高橋村の村民大会での分村による送り出し決議を受け結成、農業移民として44年3月までに約480人が中国黒竜江省ハルビンの北約80キロの地域に移った。45年8月に旧ソ連軍の侵攻に続き、日本が敗戦。召集で多くの男性が不在の中、母子やお年寄りらは入植地を離れたが、追い詰められて入水し、うち298人が亡くなった。
式典は殉難者遺族会と歴史を語り継ぐ会(奥田清喜会長)が営み、遺族会会長で入水自決を生き延びた山下幸雄さん(91)、岡村喜久枝さん(89)、木村龍輔さん(81)の元団員3人と、元団員の2世や住民ら計約35人が出席した。
続く交流会では、遺族会事務局を担う山下さんの長男文生(ふみき)さん(64)が進行役を担当した。当時10歳で入水しながらも生き延びた岡村さんは「川に入る1時間前ぐらいから拝む人、泣く人がいた。そうした人の声が耳元から離れない」とつらそうな表情で振り返った。そして「私も川に入った。1人だけ生き残ったら困ると思った」と心境を明かした。
山下さんは家族7人で移住したが、町内に建立されている団員を悼む碑に刻まれた名前はそのうちの6人。12歳だった山下さんは、16歳の兄と背中合わせで縛られて水に入ったが生き延びて1人で帰郷した。「戦争は、勝っても負けても双方に犠牲が出る。してはならん、と強く思っている。ここまで生きてきた。日本が安全で平和な国ということが、ありがたい。そして、平和が長く続いてほしい」と願いを語った。
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