礎石(左)近くにある、表面の土の種類や色が異なる地層。時代ごとの火災跡が残っていたと確認された=奈良市の東大寺で2024年9月17日午前10時36分、稲生陽撮影
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 東大寺(奈良市)は19日、境内の川の護岸整備に伴い発掘調査をしてきた大仏殿北側の「講堂・三面僧房跡」で見つかった礎石や周辺の地層に、古文書にある3回の火災跡が見つかったと発表した。講堂をコの字形に囲む僧房の礎石(柱を建てる基礎となる石)で、今回の調査で12個を発掘。いずれも奈良時代の創建時の図面通りの場所で見つかったことから、焼失後も同じ場所に僧房を再建し続けていたとみられる。【稲生陽】

 正倉院に残る講堂・僧房創建当時の「殿堂平面図」によると、僧が説法に使う講堂は幅54メートル、奥行き約28・5メートルの大きな建物と考えられている。講堂と回廊でつながった僧房は幅221メートル、奥行き126メートルのさらに巨大な建物とされ、高僧が住む内側の大房と、高僧の身の回りの世話をする僧が住む外側の中房に分かれていたという。僧房には1000人以上が暮らしていたとみられ、今回の調査で平安・室町時代の皿などの生活道具も出土した。

東大寺の三面僧房
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 講堂と僧房はいずれも大仏開眼翌年の753年に着工、780年ごろに完成したとみられるが、平安時代の917年に失火で、1180年に平重衡の南都焼き討ちで焼けて再建した。だが、戦国時代の1508年に失火で焼けて以降は再建できず、江戸時代以降は講堂跡の周囲を小さな川が流れる地形になっていた。

奈良時代の創建時の図面通りに配置

 今回は東大寺と奈良文化財研究所、橿原考古学研究所が合同で、川を約90メートルにわたって調査。僧房の東棟の位置の川底から、絵図にある柱の位置とほぼ同じ配置で礎石が見つかった。いずれも直径約1メートルと大型で、柱に合わせた加工跡から直径60センチ程度の巨大な柱を支えていたとみられる。一部の礎石や周辺の地層には焼けて黒くなった土や瓦などの破片と通常の土が交互に残っており、火災で焼けるたびに同じ場所で再建し続けてきたことがうかがえるという。

 東大寺境内史跡整備計画室の南部裕樹室長は「礎石がきれいに並んだ様子を見られる機会はなかなかない。護岸整備後は完全に見えなくなるので、ぜひ確認してほしい」と話している。

21日に一般向け現地説明会

 東大寺は21日、一般向けの現地説明会を開く。午前10時▽同11時半▽午後1時▽同3時の計4回で、申し込み不要。参加無料。境内史跡整備計画室(0742・22・5543)。

大きさに驚き、平面図も正確

 栄原永遠男(さかえはら・とわお)・大阪市立大(現大阪公立大)名誉教授(日本古代史)の話

 僧房と思えないほどの礎石の大きさに驚くとともに、奈良時代の殿堂平面図の正確性がよく分かった。焼失から数十年たっても同じ場所に再建し続けたのは、昔の伽藍(がらん)(寺院の建物)を復元しようとする寺の意図があったのではないか。発掘範囲を広げれば、さらに新しいことが分かるだろう。

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