思いもよらぬ言葉に、動揺した。
両親に結婚を伝えるため、婚約者の女性を乗せて実家へ車を走らせていたときのことだ。
助手席にいた10歳下の女性は、ふいに「別姓に、事実婚にしたい」と切り出してきた。
結婚といえば、夫の名字になるのが当たり前で、もし妻の名字になれば、それは「婿入り」という感覚だった。
そんなことを言ったら、両親に猛反対される。このままでは紹介できない……。
車を路肩に止め、女性に言った。
「この話は、いったん無かったことにしようか」。思わず婚約破棄を口走っていた。
「家を継ぐ」意識
長野県立高校の元教諭、小池幸夫さん(66)は、33歳で起きたこの出来事をはっきりと覚えている。
中央アルプスと南アルプスに挟まれた伊那谷にある長野県箕輪町で生まれ育った。父は役場の職員、母は専業主婦という家庭の長男。県外の大学院を出た後、長野に戻って高校の社会科教諭になった。
Uターンするには、役場勤めか教員くらいしか仕事はなかった。「『家を継ぐ』イメージでしょうね。代々引き継いでいる田んぼと畑をやって、父母の面倒をみて」
最初の赴任校で6年目を迎えた1990年、ある女性が新卒で赴任してきた。校外視察や、土曜日の放課後にスキーへ行くなどして交際が始まり、結婚の話になった。関係は順調そのものだった。
勝手に出された婚姻届
そして91年5月、両親に結婚報告に行くための車中で、あの出来事が起こる。
差し当たり女性が別姓の願いを引っ込めることで、「婚約白紙」という最悪の事態は免れた。双方の両親には、結婚する意思だけを伝えた。
ただし、女性とは姓についての議論を先送りしただけ。その後も、別姓の話が出るたびに「私が不機嫌になる」(幸夫さん)ため、冷静な話し合いにならなかった。
91年11月、2人は結婚式を挙げた。当時、招待状は両家の父親が出すのが慣例だったが、2人はそれに従わず、それぞれのフルネームの連名で出した。
結婚式の翌日、2人は新婚旅行に出発した。帰ってくると、幸夫さんの父からこう告げられた。「婚姻届、出しておいたから」
実は、互いの両親に「事実婚希望」とは言い出せないままだった。
幸夫さんの父が代理で婚姻届を提出したのは、単純な善意。親が代わりに出すのは、よくあることだった。
民法750条は「夫婦は夫または妻の氏を称する」と定めており、幸夫さんの父は深く考えず、婚姻届の姓の選択で「夫の氏」にチェックを入れた。そういう時代だった。
「氏名は自分そのもの」
女性の側からは、どう見えていたのか。
女性は、高校教諭の内山由香里さん(56)。
長野県中部の山あいにある筑北村の出身で、子どもの頃から「女らしさ」を求められた。家では意見をすると「口答えするな」、学校でも良い成績を収めると男子から「女のくせに」と言われることに反発を覚え、大学進学とともに上京した。ただ、4年時の教育実習で教員のおもしろさを感じ、長野で英語科教諭になった。
結婚を校内の同僚らに報告すると「小池さんになるんだね」「仕事は続けるの?」と言われた。結婚するって、私の姓を変えることなんだ――。
「家の外では、何百回も何千回も『内山さん』と呼ばれてきた。名前は自分そのものだから、私が私じゃなくなる感じでした。だから、相手にも変えてほしいと思わない」
事実婚を提案することにはためらいもあった。でも、平和教育に熱心で、女性教諭からも「家事をやってくれそう」と評判のよかった幸夫さんには「リベラルな考え方だから、受け入れてくれるだろう」という信頼もあった。「だからショックでした。『ザ・田舎の男』と思いました。考え方がガチガチなんだなって」
3度の結婚、3度の離婚
そんな幸夫さんの転機は、ひょんなことだった。
婚姻届が出されてから2カ月くらいして、書店でたまたま、ある本を見つけた。民法750条は、結婚する夫婦のどちらかに改姓を「強制」していること、改姓する側のアイデンティティーを侵害することが書かれていた。
「こういうことだったのかと。それまでは凝り固まって、姓を変えられることを意識してみようともしなかった。考え方が変わったと思いました」
<2人が結婚式を挙げた91年から、法相の諮問機関・法制審議会で選択的夫婦別姓の導入を巡る議論が始まっていた。96年には法制審が制度導入を答申した>
2人は姓を巡り、たくさんケンカをした。当初はわかり合えなかったが、思いを伝えて、理解をしようとする。そうした対等な関係が家族の結束を強めた。由香里さんはそう感じている。
長男、長女、次女の3人の子に恵まれた。長男が生まれた後に離婚し、その後も2度、妊娠が分かると婚姻届を出し、出産後に離婚という手続きを繰り返した。いわゆる「ペーパー離婚」だ。こうすることで、3人の子は幸夫さんと同じ「小池」になった。由香里さんには「内山」姓を残すこだわりまではなく、「小池」を選んだのは字画の問題だった。
失われない家族の一体感
2人は、書類上は夫婦でない事実を、3人の子にも双方の両親にも、長く言わなかった。言う必要がなかった、と言った方が2人の感覚に近い。
95年に2度目の離婚をした後、何かの必要で戸籍謄本を取った幸夫さんの父が事実婚に気づいた。だが、父は「お前たち、とんでもないことをしているな」と苦笑いするだけだった。
婚約当初は「両親に猛反発される」と直感していたが、隠していたことを怒ったりしなかった。「離婚してもしていなくても、家族の生活が何も違わなかったからじゃないですかね」と幸夫さんは言う。
夫婦別姓で親子の姓が違う場合、「子どもがかわいそう」とも世間では言われている。しかし、3人の子どもたちは何の疑問も持たず、いじめられることもなく育った。
娘の姿を見て衝撃、積み残された課題
2017年春、次女の真実さん(22)は高校に進学し、由香里さんが顧問を務める放送部に入部した。3年生だった19年、「真実の家って、親子で名字違うのおもしろいよね」という部員の声をきっかけに、「うちって変ですか?」という題名の8分間の映像を制作した。
両親や海外出身の先生、選択的夫婦別姓を求める裁判の原告になったソフトウエア会社「サイボウズ」の青野慶久社長にもインタビューした。「好きな人と自分らしく結婚したいだけなのに」との思いをナレーションに込めた。
作品は、NHK杯全国高校放送コンテストの全国大会に出場した。ただ、大ホールで上映される上位4点には入れなかった。真実さんは「3000人の高校生に知ってもらえる機会だったのに」と悔やんだ。
その姿に、由香里さんは頭をがつんと殴られたような衝撃を受けた。「結婚式を挙げてからの30年間、いつか実現するだろうと思ってきたけど、何もしてこなかったなと」
20年には長女が結婚し、夫の名字になった。1週間くらいたった頃、泣きながら「自分の名前のお葬式をしているみたい」と由香里さんに電話をしてきた。「娘の代まで、問題を積み残してしまった」という思いに駆られた。
次の世代に残さないために
由香里さんは、選択的夫婦別姓の導入を目指す団体に連絡を取り、議会への請願などの活動を始めた。
<96年の法制審の答申を受けて法務省が作成した民法改正案は、自民党の保守派の反対で国会に提出されないまま、四半世紀が経過した。野党の多くは選択的夫婦別姓に賛成で、賛否を問う各種の世論調査では賛成が過半数に達している>
「結婚する夫婦の96%が夫の姓を選んでいる。これが半々になれば、男性も女性がどんな苦しみや不便を抱えているかを理解すると思います」。幸夫さんはそう言う。「私も頭では分かっているんですけど。でも、改姓を経験していないから本当の意味では分かっていません」
2人は、選択的夫婦別姓の導入を求めて国を相手取った集団訴訟の原告に加わり、24年3月に提訴した。
<選択的夫婦別姓の導入を求める集団訴訟はこれまでに第1次、第2次が起こされ、最高裁は15年と21年、選択的夫婦別姓を認めない民法の規定を「合憲」と結論づけた。いずれの判決も「国会で論ぜられ、判断されるべき」だとしている>
由香里さんの同僚の30代男性は4年前に結婚をして、妻の姓に変えることにした。しかし、男性の両親が反対し、祖母は泣いて訴えた。結局、妻が折れて男性の姓になったという。
「結婚って、みんなに祝福されるから幸せなのに、素直に喜べないんですよ」。そう言う同僚の思いも背負い、裁判に臨む。
<24年6月、経団連は選択的夫婦別姓の導入を求める提言を発表した。自民党は翌月、3年ぶりに党内での議論を再開している。次の首相を事実上決める自民党総裁選では、9人の候補のうち、選択的夫婦別姓の導入に賛成する小泉進次郎氏が「1年以内」に民法改正案を国会に提出すると明言しているが、賛成派の候補者は多くない>
「誰が首相になっても、30年近く法案を出さずに議論してこなかったことに決着をつけてほしい」と語る幸夫さん。
社会を変えるためには、待つだけでなく、行動しなければ――。娘たちに背中を押される形で、時代を一歩前に進めるためにできることをしていくつもりだ。【深津誠】
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