旧優生保護法のもとで不妊手術を強制されたとして、宮城県内の女性2人が国に賠償を求めていた裁判で、9月24日、このうち1人の和解が成立しました。一方で、原告の飯塚淳子さん(仮名)は即日の和解成立を見送りました。27年前、被害者として全国で初めて声をあげた飯塚さんは複雑な思いを抱えながら今を生きています。
飯塚淳子さん(70代・仮名)。仙台市内のアパートに一人で暮らしています。
飯塚淳子さん
「本当に長かったですよ。もっと早く認めて欲しかった。国がやった問題なんでね。私ら何も悪いことしていないし」
16歳の時、軽い知的障がいを理由に不妊手術を強制された飯塚さん。旧優生保護法によって子供を産み育てる権利を突然奪われました。
飯塚淳子さん
「できればお金いらないから、16歳に戻してもらいたい。でも人生戻ってこないし、もう少し若いんだったらやり直しも効くんだけど、もう今は年取って目の前は“死”なので」
今年7月、最高裁判所は旧優生保護法を憲法違反と判断。「国は長期間にわたり障害がある人などを差別し、重大な犠牲を求める施策を実施してきた。責任は極めて重大」と指摘し、国に賠償を命じる判決が確定しました。
不妊手術を受けた人は、全国で約2万5000人いると推計されています。最高裁の判決を受けて岸田首相が原告と面会し、政府として謝罪。旧優生保護法をめぐる全国で起こされた裁判は、一気に和解へと動き出しました。
このきっかけともいえる活動を始めたのが飯塚さんです。旧優生保護法が改正された翌年の1997年。今から27年も前、差別や偏見を恐れ、被害を訴える人が誰一人いない中、飯塚さんは全国で初めて旧優生保護法の“被害者”として名乗り出たのです。
飯塚淳子さん
「大変だったけど、皆のことを思いながら、自分のことを思いながら声上げてきたんで。ここまで裁判につながっていったんでよかったなあって。本当にここまで来るまで大変でした」
飯塚さんの自宅には、声を上げてから27年分の資料が残されています。裁判を起こすため公文書の開示を求めたもの。被害を知ってほしいと当時の宮城県知事に送った手紙。一人で始めた戦いは、いつしか多くの支えができ、世の中を動かす大きなうねりに発展しました。
飯塚淳子さん
「私らはもう手術されているから、されていない人たちを手術するようなことはしてはならない。二度とあってはならない。これだけは国にきちんとしてもらいたい。差別のない社会」
そして9月24日、仙台高裁では飯塚さんを含む県内の原告2人が起こした裁判の和解協議が非公開で行われました。出席した原告側の弁護士によりますと、原告2人のうち1人について、国が1500万円の慰謝料を支払うことで和解が成立したということです。
一方で、飯塚さんは24日、和解が成立しませんでした。
新里宏二弁護士
「優生手術で人生を狂わされた思いで、今これで、このぐらいの説明で決めていいのか。まだ決断できていない。弁護団としても寄り添いたい。焦る必要はない。本人が納得できると思ったところで和解になればいい」
飯塚さんの次回の和解協議は、10月31日に開かれます。
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