あと少しで夫の手を握ることができたのに。娘は地震で失った職をやっと見つけたところだった。亡き妻に伝えたい「ありがとう」。豪雨の爪痕が残る能登半島で、最愛の家族を思う人たちがいる。
後ろから襲ってきた濁流にのまれた。大声で呼びかけると、左手を上げた夫の顔が目に入った。あと10センチで手が届く。大量の水が再び、2人を押し流した。「お父さん、お父さん」――。
石川県珠洲(すず)市で約50年の歴史がある「ホテル海楽荘」は、池田幸雄さん(70)と妻真里子さん(68)が切り盛りしてきた自慢の宿だ。
ホテルの前には日本海の大海原が広がっている。近くに景勝地の「垂水の滝」があり、岩に打ち寄せた波が白い泡になって雪のように舞う「波の花」が名物だ。山海の新鮮な食べ物にも恵まれ、120人ほどが泊まれる宿は絶え間なく予約が入った。
幸雄さんは明るくて、話し好きだった。「お父さんはセールスで全国を飛び回り、お客さんをどんどん連れてきたんですよ」と真里子さんは語る。
1週間前の朝、経験したことのない大雨が降り続いていた。ホテルのすぐ横にある川の流れは勢いを増す。流されてきた大量の倒木が橋桁にぶつかり、「バリ、バリ」という不気味な音を立てていた。
「床上まで水が上がることはないだろう」。2人が1階のロビーで外の様子をうかがっていた時だった。後方の館内から濁流が押し寄せ、2人は玄関から外に投げ出された。真里子さんは頭まで水をかぶったが、道路脇の手すりに引っかかって止まった。
「お父さん、どこにおる」。必死に呼びかけると、「おーい」という声とともに、数メートル先に幸雄さんが見える。濁流の中を踏ん張って歩いて近づいた。手を伸ばしたが、なかなか届かない。「あの時、手を握れたら助かったのに」。真里子さんは涙ぐんだ。
元日の地震で、ホテルは客室や大浴場の壁が崩れ落ちた。海沿いを走る国道249号は土砂崩れで寸断され、一時孤立した。地区の住民は自衛隊のヘリコプターで脱出したが、一家はふるさとに残った。
「解体して小さな民宿にでもすればいいかな」。こう考えていた真里子さんに対し、幸雄さんは今の建物にこだわった。「あと15年、自分は大丈夫だから直そう」と決めた。
電気が復旧し、2月中旬から再び営業を始めた。地震後の工事に関わる人たちを受け入れ、断水が続く中でも朝晩2食を出した。ご飯はペットボトルの水で炊き、幸雄さんが片道1時間をかけて漁港で鮮魚を仕入れ、刺し身を振る舞うこともあった。
外壁を張り替え、10月からは壁や天井を直した大浴場を再び使い始めるつもりだった。だが、夫婦で思い描いた再出発の道は大雨が全て奪い去った。
大広間や廊下は1メートル以上の土砂で埋まっている。冷凍庫や洗濯機などは流された。「これだけ被害を受けたら、心が折れてしまう。もう再生しようにも気力がわかない」
豪雨で再び孤立し、助けはなかなか来なかった。家族の写真や年賀状、衣服が散乱した海岸で、真里子さんは連日、幸雄さんの姿を捜した。25日には近くで1人の遺体が見つかったが、まだ身元は明らかになっていない。
「お父さんは朝から晩まで働いて、人を喜ばせるのが大好きでした」。新婚旅行を除けば、2人で遠出もしなかった。でも、一緒にお客さんをもてなしてきたことが一番の思い出だ。
幸雄さんがいないとさみしい。これからどうするかも相談できない。「『ただいま』と言って、帰ってこないかな」。いつもの出張帰りのように、夫の顔を早く見たい。【阿部弘賢】
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