「生活も、思い出の品も、全てなくなってしまった……」
能登豪雨から6日後の27日、谷内勝次さん(46)は避難先から石川県輪島市打越町の自宅に初めて戻ると、その情景に言葉を詰まらせて涙を拭った。
脇を流れる小川の斜面が崩れ、そこに我が家が落ち込み20メートルほど流されていた。2階の窓には、流木が突き刺さっていた。
谷内さんはかつて、建設会社で働いていた。29歳の時に「高齢の祖母のケアができるように」と、未経験ながら福祉の世界に飛び込んだ。
「あんたがおってくれて、ありがたい」
利用者からの声にやりがいを感じてきた。妻は同じ施設の介護士。3人の子どもと妻の両親の7人家族で幸せに暮らしていた。
ところが、元日の地震で市内は最大で震度7の揺れに襲われ、その後は県が「2次避難所」として用意したホテルでの避難生活を強いられた。自宅は損害の割合が10%以上20%未満の「準半壊」と判定されて、仮設住宅の入居対象にはならなかった。
勤務先の高齢者施設も被災し、運営を休止した。再開のめどは、なかなか立たなかった。
「自分の技能を生かした仕事をしたい。容易に仕事を選んで、またすぐ転職することになると、家族に迷惑がかかる」
休業手当をもらいながら、貯金を切り崩して暮らしてきた。4月下旬、自宅の停電がようやく解消したので、自宅での生活を再開させた。
周辺には地震で崩れた斜面の土砂が残っていた。裏の小川にも流木が折り重なったまま。市に撤去を求めたが「予算がない」という返事だった。
「次に地震があったら……」「大雨が降ったら水の逃げ場がないのでは……」。不安を感じながら5カ月近くを過ごしてきた。
豪雨があった21日は、保育園に通う娘2人の運動会の日だった。朝、娘を保育園に預けて帰宅した頃、雨が激しさを増した。
異常を感じた義父から「この雨は普通じゃない。園の子どもの近くにおれ」と強く言われ、慌てて車で子どもを迎えに行った。その後、妻らと合流し小学校で一夜を過ごした。翌日からは公民館で避難生活を送っている。
勤務先とは別の社会福祉法人に転職するため、24日には面接を受ける予定だった。だが、その予定も流れてしまった。
自宅が崩れ落ちた小川の下流側に目をやると、子どもたちのおもちゃやDVDなどが散乱していた。
「地震を乗り越えて、一番下の娘が4歳になる来年には皆でディズニーランドへ行こうと思っていた。正直、今はそんな簡単な未来さえ描けない」
大地震のわずか約9カ月後に豪雨に見舞われ「ぶたれて、たたきのめされたような気持ちだ」と話す。
長男は小学1年とまだ幼く、自身も持病を抱え健康に不安がある。こんな状況の中、自力で立ち直るのは無理だと感じている。
それでも、ふるさとから離れるつもりはない。「ここで生まれ、親からずっと命をつないできた」。ただ、立ち直るには手厚い手助けが要る。
「行政は、何もかもなくした状態の被災者を想像して、支援をしてほしい」。そう切実に願った。【国本ようこ】
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