1966年に静岡県で一家4人が殺害された事件で死刑とされた袴田巌さん(88)の再審無罪が9日、確定した。やり直しの裁判で無罪とした静岡地裁判決に対する上訴権を静岡地検が放棄した。死刑事件の無罪確定は戦後5例目。発生から58年という異例の冤罪(えんざい)に社会は何を学べるのか。専門家の意見を聞いた。

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「誤判起きうる」再審の重要性を確認 元東京高裁部総括判事の門野博弁護士

門野博氏

今回の静岡地裁判決は「5点の衣類」の色調の変化に関して丁寧な審理や判断がなされ、捏造(ねつぞう)の認定も状況証拠に基づくとはいえ的確で説得力があった。検察側が控訴を断念したのは正当な判断だ。

一方、検事総長が談話で、その判決への不満を連ね「到底承服しがたい」と表明したことは見過ごせない。再審請求審も含め長い年月をかけて審理した上で、無罪判決が出された事実は重い。検察の検証は自己弁護にとどまってはいけない。

今回の事件は日本の刑事司法が抱える様々な課題を改めて浮き彫りにした。証拠開示のルールがないなどの再審制度の不備や自白に偏重した捜査の危うさはその一例といえる。

裁判所の再審請求審に対する消極的な姿勢も手続きの長期化の一因となってきた。誤判は起きうるという認識をそれぞれの裁判官が持ち、司法行政に携わる担当部署も含めて再審の重要性を確認する機会としなければならない。法曹界全体で大いに反省して問題点の解明に取り組み、今後の方策を検討する必要があるだろう。

検察は教訓生かし信頼回復を 元最高検次長検事の伊藤鉄男弁護士

伊藤鉄男氏

検察が控訴を断念したのは、一つの落としどころとはいえ、苦渋の決断だっただろう。今回の静岡地裁判決が指摘したように捜査機関が重要な証拠を捏造したとすれば、大がかりな作業が必要となる。しかし捏造を示す具体的な根拠は示されておらず、事実認定はずさんだ。

検察はどこかで潔さが求められ、メンツにこだわってはならないものの、こうした判決を全面的に受け入れるのは不正義ともいえ、難しい判断を迫られていた。それでも事件発生から58年は当時の殺人罪の公訴時効(25年)をはるかに超え、あまりに長すぎた。

公益の代表者である検察は国民からの信頼を基盤に成り立つ組織で、控訴しない経緯を説明する責任がある。検事総長が談話を通じて断念した理由や承服できない点などを明らかにしたのは評価できる。

検察は今後、再審請求の手続きにとどまらず、事件発生から控訴断念に至るまでの経緯を振り返り反省点を整理するべきだ。例えば「5点の衣類」が事件発生から1年以上たって見つかった時点で、経緯や状況を調べて資料にまとめる必要があった。教訓を今後の活動に生かすことが国民からの信頼回復につながる。

事件を多角的に見るリテラシー必要 立命館大学の渕野貴生教授(刑事訴訟法)

渕野貴生教授

事件が発生した当時は報道各社だけでなく、社会全体が「犯人を迅速に特定して処罰すべきだ」という視点に大きく偏っていた。無罪かもしれないとか違法捜査があったのではないかと考える共通認識がなかった。逮捕されたら「一件落着」だった。

50年以上たった今、その風潮は部分的に変わってきている。特に裁判員裁判の導入をきっかけとして、検察側だけでなく弁護側の主張もしっかり発信されるようになった。刑事司法の仕組みも変化し、証拠開示や接見機会の確保の必要性が知られ、捜査機関が必ずしも正しいとは限らないことが社会に共有されている。

ただ、冤罪が疑われるような事件が取り上げられた時だけ世論も犯人でない可能性を考える方向に進むが、痛ましい事件が起きるとまた容疑者に対して「無罪推定」の原則が考慮されなくなる。報道を含め社会全体で事件をより多面的に見ることができる「刑事司法リテラシー」を醸成する必要がある。

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