ノーベル平和賞の授賞式当日を迎えた日本被団協の田中熙巳代表委員(中央)=オスロで2024年12月10日、猪飼健史撮影

 核兵器は人類とは共存させてはならない――。ノルウェー・オスロで10日、開かれた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞の授賞式。田中熙巳(てるみ)代表委員(92)は世界に向けて発信するメッセージにその願いを込めた。

 「人類が核兵器で自滅することのないように。核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」

 田中さんは時折、手元の原稿に目を落としながら、力強く言葉を重ねた。約21分にわたる演説を終えると、会場の人々はスタンディングオベーションでたたえた。

 10月11日に平和賞受賞が決まってから、生活は「めまぐるしくなった」。1人暮らしをする埼玉県新座市の自宅で演説内容を考え、国内外のメディアの取材に応じた。疲労が重なったためだろうか「初めて風邪で病院を受診した」という。

 演説の原稿執筆に当たっては「周りがいろいろプレッシャーをかける。気が重くなって、完成したと思ったら夢だったこともあった」と振り返る。事務局や他の役員らの協力も得ながら1カ月以上かけて完成させた。

ノーベル研究所を訪れ、芳名帳に記帳する日本被団協の田中熙巳代表委員=オスロで2024年12月9日、NTBロイター

 演説には、自身の1945年8月9日の体験も盛り込んだ。軍人だった父が亡くなり、旧満州(現中国東北部)から長崎に引っ越して旧制中学に通っていた13歳のとき、爆心地から約3・2キロの自宅で被爆した。親族を捜して母と爆心地付近に入り、焼け死んだ人や水を求めて川で息絶えた人たちの無数の遺体を目にした。伯母ら親族5人を失った。

 「その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました」

 戦後、頼れる人がいない一家の暮らしは経済的に困窮した。それでも大学進学を目指して上京。働きながら毎年大学受験に挑み、東京理科大に入学した。当時は被爆者という意識は薄かったが、長崎の同級生が白血病で亡くなったことをきっかけに被爆者健康手帳を取得した。

 卒業後は東北大の研究者となり、宮城県の被爆者団体の扉をたたいた。東北大を定年退官すると、日本被団協の活動に本腰を入れるため埼玉県に移り住んだ。

 事務局長を通算20年務め、米ニューヨークの国連本部での原爆展も実現させた。そして、2017年に代表委員に就任した。

 演説には、自分たちの願いを受け継いでほしいという思いも盛り込んだ。「原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しています」

 田中さんは若い世代に向けてオンライン会議も積極的に活用する。今春には被爆証言をしながら世界各地に寄港するNGO「ピースボート」の船に約1カ月乗船した。

ノーベル平和賞授賞式を前に記者会見する田中熙巳さん=東京都千代田区で2024年12月2日午後3時37分、長谷川直亮撮影

 時には、つえを片手に署名提出のために東京・永田町に出向く。政治家が非核三原則の見直しに言及する度に危機感と憤りをあらわにしてきた。

 ノーベル平和賞の授賞式には7年前にも出席したことがあった。17年のNGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)への授賞式。カナダ在住の被爆者、サーロー節子さん(92)の演説を間近で聞いた。演説中、田中さんは涙をこらえながら、核兵器がこの世からなくなるまで力を尽くそうと誓い合い、道半ばで逝った先人や仲間たちの姿を思い浮かべた。

 今度は田中さんがその場所に立った。同じく代表委員の田中重光さん(84)、箕牧智之(みまきとしゆき)さん(82)が壇上で見守る中、世界の人々にこう呼びかけた。

 「みなさんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたい」

【椋田佳代】

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