「自分たちの苦労を子どもたちにさせたくない」と語る阿波さん=長崎県佐世保市城間町の無窮洞で2024年4月26日午後2時16分、綿貫洋撮影

 長崎県佐世保市城間町に残る巨大な防空壕(ごう)「無窮洞(むきゅうどう)」。規模の大きさだけでなく、当時の小学生が終戦の日まで手作業で掘り続けた歴史を持つ。戦後80年近くとなり、当時を知る人が少なくなる中、10人いる無窮洞ガイドのうち、阿波(あわ)英一さん(91)=同市長畑町=は唯一、掘削作業の経験者だ。【綿貫洋】

 「あなたたちの命を守る防空壕なので頑張って掘りなさい」

 1943年8月。戦況の悪化から子どもたちの避難先の必要性を考えた宮村国民学校(現佐世保市立宮小学校)の池田千秋校長の発案で、学校の裏山に防空壕の掘削が始まった。道具は家庭から持ち寄ったツルハシ、クワ、金づち、ノミ――など。高学年男子が掘った後を高学年女子が整形し、低学年は掘った岩を竹製のざるで運動場や道路に運び、金づちで細かく砕いた。

 「素手、わら草履をはいてツルハシで掘った。血豆ができて痛かった」。阿波さんは当時を振り返る。授業と掘削作業が日ごと午前午後で割り当てられ、池田校長が常に現場監督として作業に立ち会い、子どもたちに「頑張れ」「けがをせんように」と声をかけた。重労働で級友と話す余裕はなく、子どもたちは黙々と作業に従事した。子どもたちは他にも出征した家庭へ出向いての除草作業もあったといい、阿波さんは「奉仕活動ばかりで勉強は(通常の)半分もしていない」と語る。

 終戦を迎えた45年8月15日、無窮洞は未完成のまま作業は終わった。進駐軍が蛮行に及ぶといううわさが飛び交い、阿波さんはどこに逃げるかを考えるばかりで、終戦に安堵(あんど)することはなかったという。

 戦後、無窮洞には県内外から小学生らが見学に訪れている。阿波さんは、掘った経験を子どもたちに伝えていこうと、無窮洞の一般公開が始まった2002年からガイドを務めている。

 「電気はきていましたか」「水はどうやって引いたんですか」。素朴な質問を投げかける子どもたち。阿波さんは「自分たちの苦労をみんなにはさせたくない。二度と戦争をしないよう平和を大切にしなさい」と語りかけている。

無窮洞

 凝灰(ぎょうかい)岩をくり抜いた内部は「ロの字」構造で、主洞(奥行き19メートル、幅5メートル)と副洞(同15メートル、同3メートル)のほか書類室、台所、教壇などを備えた総面積約230平方メートル。児童約600人を収容できる広さで、当時の校長が子どもたちの未来に願いを込め、極まりない無限を意味する「無窮洞」と命名した。年間約2万1000人が見学に訪れている。

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