だが、景気の停滞感が強まる中、ESGにも多くの困難が生じているという。欧州の最前線で何が起きているのか、KPMGインターナショナルで世界のESG開示支援チームのトップを務めるヤン=ヘンドリック・グネンディガー氏に聞いた。CSRDを中心に、ESGの情報開示は逆風にさらされていると話す。
CSRDとは、欧州連合(EU)による法令で、EU域内の企業に対してサステナビリティー情報の膨大な開示を求める規則。温暖化ガス(GHG)の排出量から、廃棄物の総発生量、年齢別従業員分布、果ては政治献金の金額まで、1000種類以上のデータが開示の対象になる。一定の条件を満たせば、2025年度から日系企業も対応が必要となる。
サステナビリティー開示に政治的な思惑
――そもそもから教えてください。なぜ欧州にCSRDが必要なのでしょうか。
「CSRDの導入には、EUの政治的な動機があったといっても、過言ではない。欧州はデジタルトランスフォーメーション(DX)の競争で敗れ、巨大テック企業が位置するのは米国かアジアだ。現状の富を失っていき、やがて資源などにアクセスできなくなる可能性さえ欧州は自覚していた」
「だからこそ、循環経済や気候変動の観点で何かをする必要に駆られていた。そこで、グリーントランスフォーメーション(GX)への移行を主導するには、気候変動などの観点で企業会計の透明性を向上させればよいと考えた。透明性を実現できれば、環境に対応した新技術への投資につながる。それも、欧州がまた世界に後れを取らない方法でできるのだ、と」
欧州企業にも広がる苦戦
――CSRDでは1000種類以上もの情報が開示を検討する対象になります。スコープ3の情報など、欧州企業の負担は重いのでは。
「実は欧州企業も当初、『大変な量の作業だが、対応可能だろう』と捉えていた。だが、バリューチェーンの要素が本当に困難であることに欧州企業も気がつき始めている。CSRDだけでなく、人権デューデリジェンスや森林保護規制など、欧州企業が対応すべき規制は山積みだ」
「求めるデータが多いのは、ESGは幅広い概念で、気候変動のみに限られないからだ。水やゴミ、生物多様性といった考えも含むのだ。欧州では米国や国際基準と異なり、ステークホルダーの捉え方が幅広い。投資家に対してだけでなく、環境や社会に与える影響も重視して非財務情報を開示しなければならないという『ダブル・マテリアリティー』(二重の重要性)の考え方が根底にある」
――CSRDなど環境規制に対して、欧州企業にも不満があるのですか。
「ドイツは現在景気後退のさなかにある。そんな中、我々のクライアントも含め、大手の上場企業でさえ不満を口にしている。CSRDへの対応が不要な米国やアジアの企業に対し、競争上の不利が生じてしまうと」
「欧州議会の状況も変わってきた。今では右翼のポピュリスト政党が伸長している。欧州の『グリーンディール』は難しい局面にある。CSRDの見直しが表立って議論されるほどではないが、不満の声は高まってきている状況だ」
問われるサステナビリティー開示の効果
――そうした逆風の1つが9月に公表された「ドラギリポート」なのでしょうか。ヨーロッパ中央銀行の前総裁が、EUのサステナビリティー開示やデューデリジェンスが、企業の負担になっていると指摘。波紋を広げました。
「そのとおりだ。ドラギリポートは現状の欧州の経済で不平を言うものに視点を合わせている。欧州企業は環境や社会のための規制にあまりに多くを投資しなければならない上、規制の効果も明らかではないと経済界は見ている」
「これは欧州と米国という、2つの大陸の競争という側面もある。米国は社会を変革する際、投資に頼ってきた。だが、欧州の変革はいつも規制に頼ってきてしまっていたのだ」
――投資については、金融商品のESG情報を義務付ける「サステナブルファイナンス開示規則」(SFDR)もEUは準備していました。CSRDで企業がESG情報を開示し、SFDRで投資ファンドも情報を開示する。両輪のように機能すれば、GXがうまく行くというのが当初のもくろみだったのでは。
「投資家がESG情報に基づき投資をするというアイデアがあり、グリーンな資産やグリーンな投資をEUは特定しようとしてきた。だが、現状ではSFDRに基づく投資の流れは顕著ではない。将来的に何かしらの転機があれば、状況が変わるかもしれないが」
企業が直面する3つの困難
――企業にとって、CSRDに対応する上で最大の困難は。
「負担感としては、財務諸表だけの開示に比べ、開示コストは1.5倍ほどになるというのがよくある話だろう。3つの壁がある」
「1つは、社内文化の壁だ。CSRDはゲームチェンジャーの規制であり、例えば1000万ユーロ(約17億円)ほどの投資や人員の増加を取締役会に諮らないといけない場面もあるだろう。売上高につながらない投資なので、経営陣が了承しないということがあるかもしれない」
「2つ目のオペレーションの問題。CSRDの対象は約5万社にものぼるが、中小企業にはそもそも対応できる人材の採用が困難だ」
「3つ目はCSRDの専門的な理解だ。『ダブル・マテリアリティー』とは言うが、本当に重要なことは何なのか、規則はとても概括的で、理解するのは難しい。『この情報の開示は重要ではない』と判断した結果、非政府組織(NGO)があなたを訴えてきたらどうすればいいのか。どこまでステークホルダーを広げて考えればいいのだろうか。こんな悩みがある」
米国自動車メーカーも開示に前向き
――欧州以外の地域の企業はどう反応していますか。
「分別のある米国のテック企業など、CSRDに不満を言わず、前向きな反応の企業も多い。ESGの透明性を高めることに価値があると理解しているのだ」
「米国のある自動車メーカーも任意でCSRDを適用し、連結レベルで開示をしたいと言っている。なぜならドイツの自動車メーカーが連結でCSRDに基づき、幅広い情報を開示するからだ。それが投資家からのアクセスの点で欧州企業を利すると考え、負けないように開示をするのが得策だと考えている」
「彼らはCSRDで1000以上のKPI(重要業績評価指標)を追おうとすることはない。ダブル・マテリアリティーの評価の結果、開示するべき重要な項目を特定し、その中でもさらにフォーカスすべき戦略的に重要なトピックを25程度に絞り込みを行い、自らの事業の変革に世界レベルで挑んでいる。それ以外の必要な項目はコンプライアンス対応として開示を行う。賢明な企業は、これらKPIが売上高や対応コスト、投資家の観点で大切なことを理解しているのだ。個人的な見解だが、こうした企業が恐らくESGの議論の勝者になっていくのだろう。欧州にもアジアにもこんな企業はある」
ESG情報の開示に近道はない
――CSRDは欧州で経済的な困難に直面しているとお話してきました。にもかかわらず、ダブル・マテリアリティーというEUの珍しい考え方は重要なのですか。
「それが私の意見だ。投資家と社会の両方にとって重要な情報は何かを問うダブル・マテリアリティーこそが、全ての基礎になる考え方なのだ」
「財務諸表には、売上高やコスト、売掛金が何かといった概念が明確だ。一方、ESGでは皆が同意する基準は作り難い。あなた自身のバランスシート(貸借対照表)、あなた自身の損益計算書を作成していく必要がある。そのためにも、ダブル・マテリアリティーという軸で、必要な情報を精査していく必要がある」
――確認ですが、日本企業であっても、CSRDには最初から親会社の連結開示のレベルで対応したほうがよいのでしょうか。
「最適な開示戦略は企業によって異なる。自動車産業かゲーム産業かでは全く話が異なってくるだろう。EU域内の開示という直近の義務で対応を済ませるのも、親会社レベルでの開示をいち早く始めるのも、一長一短で、どちらが正しいとか間違っているということはない」
(日経ビジネス 八巻高之)
[日経ビジネス 2024年11月12日の記事を再構成]
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