交通ジャーナリストである筆者の鈴木文彦氏が、約50年に及ぶ取材活動の中で撮影してきたアーカイブ写真。ここから見えてくる日本のバス史を紐解くこの企画。今回はバス事業者の組織改編が頻繁に行なわれていた時期をご紹介する。

 現在各地のバス事業者が乗合バスを営業しているエリアは、戦時統合によって形づくられ、各県1~3ぐらいの事業者が運行する形で定着したところが多い。

 ただ、戦後まもなくの時点ではもう少し細かく複数の事業者がエリアを分けていたところもあり、1960年代に近隣事業者の合併によって今の形ができたケースも少なくない。

 そこには戦後の大手私鉄資本の動きや、そろそろバス・地方鉄道の経営事情が厳しくなっていく中で競合などを排して共倒れを防ごうと考える動きが交錯していた。

(記事の内容は、2023年11月現在のものです)
執筆・写真/交通ジャーナリスト 鈴木文彦
※2023年11月発売《バスマガジンvol.122》『写真から紐解く日本のバスの歴史』より

■同一資本系列の合併

【写真1】筑波山をバックに走る関東鉄道の路線バス。当時の同社に特徴的だった帝国ボディのいすゞ BU10(1977年)

 【写真1】は1970年代の関東鉄道(茨城)のバスである。茨城県の南半分は戦後、東側から水戸市にかけて鹿島参宮鉄道が、西側内陸部を常総筑波鉄道が運行していた。

 しかし常総筑波鉄道は過剰投資と償却不足から経営が悪化、1959年に東武鉄道と京成電鉄から取締役を迎え、1961年には京成が筆頭株主となった。

 鹿島参宮鉄道も、度重なる労使紛争によって経営が弱体化する中、1958年に京成電鉄が霞ケ浦観光への進出の足がかりとして鹿島参宮鉄道の株式を取得、1961年に筆頭株主となった。

 その後、鹿島臨海工業地帯や筑波研究学園都市の計画が具体化したため、これらを見据えて京成電鉄は筑波山地区の観光開発に着手するとともに、同じ京成電鉄系として合理化と資本力強化を図るべく、常総筑波鉄道と鹿島参宮鉄道を合併して新会社とすることが決まった。

 こうして1965年6月に両社は対等合併して関東鉄道が発足した。バスのデザインはブルー系の鹿島参宮と赤系の常総筑波を合わせて写真のカラーとなった。

 同様に、同一資本系列になったことで一元化を図ったのが西東京バスであった。戦後東京の西多摩地域は八王子を中心に高尾自動車が、五日市を中心に秋川流域を五王自動車が、青梅を中心に多摩川流域を奥多摩振興(戦前は青梅電気鉄道)が運行していた。

 1955年に京王帝都電鉄は、八王子地区で競合関係にあった高尾自動車を傘下に収めた。同年、貸切専業の八王子観光も傘下に入り、まもなく高尾自動車に合併する。

 奥多摩振興は小河内ダム建設によって観光面から注目され、京王・小田急・東京都の三つ巴の買収合戦が展開されたが、結果は地の利と高尾自動車の実績などから、1956年に京王の傘下となった。

 五王自動車には立川バスが買収の手を延ばしていたが、すでに高尾、奥多摩と両側を京王グループに挟まれていたため、1961年に京王の資本下に入った。

 こうして3社が京王系列になったことから、バス事業の合理的な運営を図るべく、3社は1963年10月に合併、西東京バスが発足したのである。バスのカラーは、前身の3社ともすでに京王のカラーになっていたので、それを踏襲した【写真2】。

【写真2】3社統合で西東京バスとなった元奥多摩振興の路線。山間部ではまだツーマン路線も多く残った(1971年)

 福島交通も、大手私鉄は絡まないが同一資本下での統合であった。戦時統合で福島県中通り地方は南北に分かれて北を福島電気鉄道、南を福島県南交通が運行していた。

 福島電気鉄道には安全自動車(クライスラーの輸入代理店)が資本参加していたが、福島県南交通も前身の有力事業者であった郡山自動車に安全自動車が資本参加していた関係で、戦時統合後も両社ともに安全自動車が株式を保有していた。

 この関係もあり、戦後福島県南交通には福島電気鉄道が資本参加していた。両社が路線を拡充していくにつれて、エリアが接する地域や観光地で競合による非効率が目立ってきた。

 そこで両社は統合を模索、同系会社同士の統合ということで比較的スムーズに進められ、1961年7月に両社は対等合併し、存続会社を福島電気鉄道とした。

【写真3】福島交通になってからしばらく福島電気鉄道のブルー系塗装が残った。川崎と提携後の安全車体の三菱 MR480(1977年)

 そして翌1962年に福島交通と改称した。バスのデザインはすでに両社とも福島電気鉄道のカラー【写真3】になっていたが、まもなくオリジナルの赤系のデザインが採用される【写真4】。

■競合の非効率を排して一元化

【写真4】三菱ふそう販売との資本関係により三菱のみとなった福島交通の当初デザイン。1980年代まで最もポピュラーだった三菱 MR410(1979年)

 新潟県中越地方は戦後、長岡鉄道と中越自動車、戦後バスを再開した栃尾電鉄がしのぎを削っていた。

 しかし競合の激化などにより3社ともに採算が悪化、1950年に長岡鉄道の社長に就任した田中角栄は、新潟交通から融資を受けて経営を持ち直した。このため当時、長岡鉄道のバスのデザインが新潟交通に似た銀に青帯へと変わった。

 一方中越自動車は、労働争議が頻発する中、観光面から東急が1959年に筆頭株主となった。このとき、中越自動車のバスのデザインは、東急に類似した銀に赤帯に変更された。

 3社の競合はエスカレートし、バックについた新潟交通と東急、さらに西武・東武など大手私鉄資本の中越進出などによって、状況は複雑な様相を呈していた。

 そのままでは共倒れになりかねない状況のなかで、もはや統合以外に生き残る道はないとの結論が3社の労使双方から出された。そして3社の協議の結果1960年10月に3社は対等合併し、新会社の社名を越後交通とした。

 このほか現在両備グループで再建された株式会社中国バスの破綻前の中国バス株式会社も、1970年にニコニコバスと尾道鉄道が合併して成立した事業者である。

 両社とも戦前からバス事業を行っており、鉄道事業があったため尾道鉄道は独立して戦後を迎えたが、1964年に鉄道を全廃したのちエリアが重複するニコニコバスとの競合が激化していた。存続会社となったニコニコバスは中国バスと改称、バスのデザインも一新した。

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