「紅白」出場打診を断り、意地を見せた=昭和63年

《昭和62年、NHK紅白歌合戦に「落選」した。55年から7年連続で出場し、白組の〝顔〟として長く存在感も示してきただけに、「落選」は自身や周囲に大きな衝撃を与えた》


「一体、どうした?」って、驚きました。「なにゆえに?」と。僕自身の人気がパワーダウンしていたのは分かっていたけど、シングルは間違いなく歌謡番組「ザ・ベストテン」やオリコン(のランキング)にも入っていた。時代の流れもあったんでしょうけどね。

自分はもちろんショックを受けましたけど、ファンの方のショックも相当、強かったはず。おふくろもショックを受けたし…。

でも、これで逆に、僕のハートには火が付きましたね。もうそろそろ引退しようかな、とも思っていたけど、やる気が出てきた。

紅白歌合戦には実は〝出場枠〟があるようなんです。〝レコード会社枠〟とか、何とか枠、みたいな。紅白は今、何をやっているのか、というぐらいつまらないし、視聴率で結果も出ていないけど、「何をしたら面白いのか」というのはその時代、時代であるはずなんですよ。

ただ、僕を落としたことについては「そういうことなんだ、もっと力を付けないといけないんだ」と思うところもあったし、「なめるなよ、この野郎」という思いもありました。


《翌63年には「抱きしめてTONIGHT」が大ヒット。NHKから再び、紅白出場を打診された》


「ほら見たか」と思いましたよ。「なめているのか」ともね。出場を断ったら、そのことを取り上げたメディアが、足を高く上げてキックする僕の写真を使っていました。〝NHKを蹴った〟みたいな。ムチャクチャですよね。

でも、僕は相手から〝線を引かれたな〟と思ったら、頑固なんですよ。前年に1度、出場させないと決めたのに、どんな理由か知らないけど、また来いっていうのはね。「オレは犬や猫じゃないぞ。なめているのか」と。27歳の子供ながら、そう思いましたね。

出場拒否については周りから相当、反対されましたけどね。「ダメだよ、出場しなきゃ」などと、事務所社長だったジャニー喜多川さんや姉のメリーさんからかなり、反対されました。ある関係者には一応、相談した。「おい、お前、出ろ」と言われ、口では「ハイ」と言いましたけど、心の中では「出ません」と思ってました。

もちろん、ファンの方の中には、「あ、やっちゃったな」と思った人もいただろうし、「トシちゃんらしい」という人もいたでしょう。

でも、僕はこれと決めたら、間違っていても突き進む男。少し違うな、と思っても、敵が1000人いようとも、そっちに行くタイプです。そういうのが好き、というのがあるんですよ。それはそれで、いいじゃないか、と。

僕は365日分の1のために生きているのではない。他の364日の方が大事なんです。いつまでも紅白にしがみつき続けるのはどうかな、と思ったし、「その人選、おかしくない?」という例も結構ある。それ以降の僕はハチャメチャになったけど、それはそれでいいんじゃないかと思う。僕はそういう道を選んでしまったし。それで生きていきましょう、って。


《63年に出場拒否して以来、NHKからは紅白出場の依頼はない》


僕が断るのを分かっているからですよね。〝特別枠〟などを用意されても、今は出る気にはなりません。ファンの中には、いまだに出場してほしい、という人もいますが、出るつもりはない。だって、その1回に出てどうするの、と思うんです。もちろん、NHKの他の番組には出てますけどね(笑)。(聞き手 黒沢潤)

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