太平洋戦争の終結から79年。戦争で父を亡くし、朝鮮半島からの引き揚げを経験した宮崎・都城市の女性は、今の子供たちに同じ経験をしてほしくないと戦争の悲惨さを伝える活動を続けている。
朝鮮半島から引き揚げを経験
「誰も助けてくれる人はいない。戦争が終わって焼野原、その日 食べるのがみんな精一杯。一番困るのは子供」2024年8月1日、宮崎・都城市の志和池中学校で行われた平和学習。生徒たちに自らの戦争体験を語るのは、都城市に住む藤田悦子さん(86)。
藤田 悦子さん:
いつ、突然、どうなるかもわからない時代になっているから、なおさら自分が何ができるかを子供たちが考えることが必要だと思って語り部をやっている。
戦争の記憶
この記事の画像(9枚)1938年、軍人だった父が駐在していた朝鮮半島の京城で生まれた藤田さん。
終戦の1年前、戦地に出兵していた父から藤田さんにあてられた手紙には「悦子ちゃん。たびたび手紙ありがとう。お母さんのことよく聞いてお利口にして遊びなさい。お父さんとても元気です。サヨウナラ」と書かれていた。
手紙が届いた1カ月後、父は帰らぬ人となった。
そして、1945年8月15日。藤田さんが7歳の時に日本は無条件降伏。藤田さんが暮らしていた朝鮮半島にも、アメリカの進駐軍が入ってきた。
藤田 悦子さん:
軍人の家族は殺される、というのをみんな信じた。はやく荷物をまとめて日本に帰れと朝鮮の京城に在留している日本兵から連絡があった。
終戦の時に海外にいた日本人は約660万人。その一人となった藤田さんが今も鮮明に覚えているのは、逃げる時に駆け込んだ駅の光景だ。
藤田 悦子さん:
朝鮮人の女の人たちが、日本人を捕まえて脱がすんですよ。私が覚えているのは、指輪とお金を引っ剝がしてる姿。すごく怖かった。「進駐軍に見つかったら殺される。ガラス窓越しに中の様子が見えるからこっちに乗れ」と載せられたのが、黒色のコンテナ車。そこでぎゅうぎゅうに押し込められて、息が苦しかった。窓がないから。
終戦後も続く苦しみ
藤田さんによると、戦争が終わって朝鮮半島から日本に帰る途中に命を落とした子供もたくさんいたという。藤田さんは数日かけて、宮崎・都城市に引き揚げることができたが、その後も苦しみは続いた。
藤田 悦子さん:
冬は靴下も履かず、上靴もないからわら草履をはいていた。いっぱいあるんですけどね。これまで生きてきているんだから。戦争で飢えた子供たちは結局、戦争が終わってからも死ななければならないということがあった。
多くの子供たちの命を奪った戦争。藤田さんは、「悲劇を二度と繰り返さないために何ができるか考えてほしい」と今を生きる子供たちに訴えかけている。
生徒からは「自分の命も人の命も大切にして過ごしていきたい」「この出来事を次の世代にも広めていきたい」などの声が聞かれた。
藤田 悦子さん:
こうしなければならないという感想を言ってくれた生徒がいた。良いなと思った。そこが欲しい。そう思ったことを考え続けてほしい。歩けて、口が動いて、目が見えて、耳が聞こえる間は(語り部を)やり続けていくだろうと思う。
(テレビ宮崎)
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