右利きだが、囲碁だけはサウスポーの井山裕太さん=大阪市北区の日本棋院関西総本部(彦野公太朗撮影)

囲碁界初の七大タイトル独占を2度にわたって達成し、国民栄誉賞を受賞-。日本の囲碁史に燦然(さんぜん)と輝く金字塔を打ち立て続ける囲碁棋士、井山裕太さん(34)。現在開催中のタイトル戦「大和ハウス杯 第62期十段戦五番勝負」(産経新聞社主催)で、芝野虎丸十段(24)=名人=に挑戦中だ。若手の台頭が著しい中でも王座、碁聖の二冠を保持する第一人者は、AI(人工知能)全盛の時代に何を追い求めて戦うのか。囲碁界の未来をどう描いているのだろうか。

常識にとらわれない柔軟な発想

段戦は、平成28年4月に最初の七冠制覇を決めたタイトル戦。井山さんにとって「特別で、記憶に残るタイトル戦」だ。その戦いの場に5期ぶりに立ち、「一番遠ざかっていたので、一番戻りたい舞台だった」と感慨深げに語る。

2月27日、大阪商業大学(大阪府東大阪市)で行われた開幕局。先番となった井山さんは黒の碁石を左手に持ち、ゆっくりと、まるで蝶が盤上に舞い降りるかのように打つ。

ゆっくりと、舞うように打つ

右利きだが、5歳で始めた碁だけはサウスポー。祖父が右脳の発達には左手を使うのがいいと指導したというのが〝定説〟となって流布しているが、井山さんは苦笑しながら「違います」ときっぱりと否定。幼少期のアトピー性皮膚炎の痛みで右手では打ちづらかったのだろうという。

初戦は敗局となったものの、「井山さんらしい手が随所に見られた。常識にとらわれない柔軟な発想に、いつも驚かされる」と大盤解説を担当した結城聡九段(52)は言う。

井山流の碁の神髄は「打ちたい手を打つ」ことにある。この信念を貫いてきたからこそ、今の自分があると井山さん。きっかけは、19歳で初めて七大タイトルに挑戦した名人戦にさかのぼる。史上初の10代名人誕生を期待されたが、3勝4敗で敗退。自分を信じ切って打つ当時名人の張栩九段(44)に対し、井山さんは自分を信じ切れなかった。不甲斐なさに涙した。

十段戦第1局の感想戦に臨む井山さん。敗れはしたが、打ちたい手は打てたという=大阪府東大阪市の大阪商業大学(山田耕一撮影)

「このままでは勝てない」。たとえ結果が悪くなったとしても、自分が納得できる手、打ちたい手を打つことを徹底すると誓った。もがき、苦しみながら意識的に棋風を変え、1年後の再挑戦で当時の史上最年少20歳4カ月で名人獲得を果たした。そして、さらに前人未到の2度の七冠達成に結びついた。

「碁のスタイルを変えたり、リスクがある手に挑戦したりするのは確かに怖さもありますが、リスクを取らずにそこにとどまってしまうのも停滞、むしろ後退につながってしまうのかなと思います」

そう、井山さんの碁はまだまだ進化し続ける。

「現状が自分の完成形とは思っていません。そのとき、そのときに感じたことを加えながら試行錯誤しているのが正直な感覚」と打ち明け、十段戦第1局をこう振り返った。

「判断ミスなどがあって結果は伴わなかったけれど、この手でこの碁を進めてみたいと、打ちたい手を打つことができた。悔いが残るものではなく、次に向けて気持ちを新たにと思っています」

3月25日の第2局は勝利で飾った。

AI全盛時代でも自分の軸変えず柔軟に対応

偶然の出会いだった。5歳のときに父が買ってきた囲碁のテレビゲームでルールを覚え、夢中になった。初心者に近かった父には比較的すぐに勝てるようになり、アマチュア高段者の祖父の手ほどきを受けた。

アマチュア高段者の祖父(左)から手ほどきを受けた=平成10年、大阪府東大阪市

「盤上では、年齢も性別も関係なく対等に戦える。基本的にどこに石を打ってもよく、自由なゲーム性も自分に合っていました。素直に自分を表現できる」。5歳の少年の心をとらえた囲碁の魅力を、井山裕太さん(34)=王座・碁聖=はそう語る。


「棋士にとって囲碁は、何もないキャンバスに絵を描いていくようなイメージで、そこに個性が出ます。ただ、2人で1局の碁をつくり上げるので、自分だけが好きな絵を描けるわけではありませんが」

また、駒にそれぞれの役割がある将棋と異なり、囲碁の場合、一つ一つの碁石に役割はなく、すべて平等だ。「どこに打つかで、すごく大事な石にもなるし、まったく役に立たない石にもなる。打つ人が石に役割を与えて力を発揮させる」。それができたとき、棋士がよく口にする「美しい棋譜」という〝名画〟になるのだろう。

「自分にとっては一手一手に無駄がない、すべての石が躍動しているようなイメージです。そういう碁が一局でも打てたらと思うし、美しいかどうかは別にして、『井山裕太にしか打てない碁』を追求していきたい」と話す。

それは、このAI(人工知能)全盛の時代に、個性やオリジナリティーをどう表現していくのかが問われているともいえる。

AI全盛の時代でも「井山裕太にしか打てない碁」を追求していく=大阪市北区の日本棋院関西総本部(彦野公太朗撮影)

ほとんどのプロ棋士が研究にAIを活用している状況は「皆が同じ先生について習っているようなもの」であり、打った手の評価が数値で出ることもあって、「どうしても価値観が似通ってくる」と指摘する。

人間を凌駕するAIの登場は、囲碁の世界にさまざまな変化をもたらした。井山さんの説明によると、人間は自分が打った手を今後も生かすように打ちたいと考える「流れ、ストーリー重視」派だが、AIは独立した局面、局面で割り切って考える「ドライ」派だ。たとえば打った手が悪手だった場合、次の手を割り切って考えれば軽傷で済むのに、流れに引きずられてより悪化させてしまうことがある、と人間とAIの違いを例示する。もちろん、AIには心理的な揺れもない。

「小さい頃から囲碁を始め、自分のスタイルが確立した中でAIに出合ったので、どれだけ研究してもAIとまったく同じような感性で打つのは難しく、ギャップにかなり苦しみました」と率直に話す。とはいえ、これまで築いたものを全部壊せば自分がなくなり、「井山裕太が打つ碁」の意義もない。

「軸となる自分のスタイルや考え方は残しつつも、うまく自分に落とし込めるところやプラスになると感じたものは柔軟に取り入れていきたい」と、たどり着いた思いを静かに語る。

これから囲碁を始める人たちにとってAIの存在は当たり前で、教科書となるだろう。「今はまだAIネーティブのような人とタイトル戦を戦うところまではきていないが、5年後、10年後、自分がそういう舞台にいられたとして、やはり違う感じ方があるのかもしれない」。そのときを楽しみにするかのように口元に笑みを浮かべた。

「お家芸」を再び世界の頂点に

「世界」を誰よりも意識してきた。目標だった七冠を達成した際も、すべてをやり遂げたという思いはなかった。グローバルな競技の囲碁には、世界の最高レベルの棋士たちが競う国際棋戦という舞台があったから。かつて「お家芸」といわれながら、そこでの日本は苦戦が続いていた。

囲碁界のためにできることを考えるのもモチベーションの一つという井山裕太さん=大阪市北区の日本棋院関西総本部(彦野公太朗撮影)

井山裕太さん(34)=王座・碁聖=が「世界」を初めて意識したのは9歳のときだった。小学2、3年生で全国大会を連覇して小学生名人となり、中国で行われる子供大会に参加できることになった。「日本の小学生で一番という結果が出ていたので、自分のことを買いかぶっていました」。結果は参加者60人中29位、9局打って5勝4敗。年下の子にも負けた。世界にはいくらでも強い人がいると痛感した。それまでは将来の夢として「世界チャンピオンになりたい」と話していたが、あまり口にしなくなった。「それだけ衝撃を受けました。もちろん心の中では目標としてずっと持ち続けていますが」

世界のトップ棋士たちと戦うためには国際棋戦に出場しなければならないが、問題があった。世界二強の中国や韓国は国際棋戦優先だが、日本は国内棋戦が優先される。日本で活躍すればするほど日程調整が難しくなり、国際棋戦に出場しづらくなる現実があった。

「世界の舞台で思う存分戦いたい」。七冠を達成した井山さんは日本棋院の役員らとともに、棋戦を主催する各社に協力を依頼して回った。自分のことだけを考えたわけではない。これから表舞台に立つ後輩たちのためにも、という思いがそうさせた。

十段を奪取し、囲碁界初の七大タイトル独占を達成した=平成28年、東京都千代田区の日本棋院東京本院

「(棋戦主催社に)ご理解、ご協力をいただき、今は当時よりだいぶ出場しやすくなりました。まあ、自分のタイトル戦が減ったということもあるんですけど」と苦笑を浮かべながら感謝する。

現在、七大タイトルは二冠を保持する井山さんと、一力遼さん(26)=棋聖・本因坊・天元、芝野虎丸さん(24)=名人・十段=の3人で分け合う。

年下と戦うことが増え、「世代交代」の声も聞こえてくる。「若い人が育ってきて、彼らに負ければそういう声が出てくるのは仕方ないこと。覆すには勝つしかない」と言い切り、年齢でピークや限界を判断する風潮には反発する。たとえば、局面を正しく判断する「大局観」などは、経験を積んで磨かれる。「年齢を重ねることでまだまだ強くなっていける、進化していける部分があると思ってやっています」と自負心をのぞかせる。

モチベーションの高さは揺らがない。「囲碁は難しく、今も本当にわからないことだらけです。少しでも碁の真理に近づけたらと思いますし、自分なりの碁も追求していきたい。一力さんや芝野さんら強い後輩たちとの戦いの中で得ているものもあるので、彼らとやりあっていけるようにしたいです」

一方で、囲碁界はいま、競技人口の減少や伝統あるタイトル戦「本因坊戦」の大幅縮小などで苦境にある。

黒と白の碁石だけで戦う囲碁の面白さをどう伝えるのかという難問に頭を悩ませながら、井山さんは「とりあえず自分にできること」として1年前、X(旧ツイッター)を始めた。自身の対局の予定や結果、盤面を使ってそのときに考えていたことも交えた振り返りなどを発信。たまに、新調するスーツの生地選びといったプライベート場面も紹介し、話題を呼んでいる。

「プレーヤーとしては、国際的な競技というセールスポイントを生かし、世界の舞台で活躍する姿を見てもらうことを目指したい。いずれは(世界トップを狙える)後輩棋士の育成にも関われたら。そして裾野を広げる意味で、小さな子供たちに囲碁に触れてもらえる機会をつくり、いつか何らかの形で携われたらと考えています」

囲碁界の第一人者は、自分が立つ現在地を鋭く認識しながら、未来を見据えて動こうとしている。

番外編・井山裕太二冠に聞きました

井山裕太さん

(Q)七大タイトル独占を2回達成。違いはありましたか?

(A)1回目のときは、絶望的な形勢を幸運にもひっくり返せたような対局が結構ありました。いろんな力がたまたまうまい方向にいき、かつ幸運が重なったというイメージが強いです。

2回目のときは「できたらいいな」とは思っていましたけど、何度もというのは現実的ではないくらい大変だったので、そこに対する貪欲さというのは1回目ほどなかった。それが逆に、1回目より少し余裕を持って臨めた感じがあります。内容的には2回目の方が一歩前に進んだ姿で達成できたのかなと思っています。

(Q)囲碁界初の国民栄誉賞受賞について

(A)自分だけでどうにかなるものではないですし、縁があるものだとも思っていなかったので、話をいただいたときは、まずは自分でいいのかなというのが一番にありました。(受賞時は28歳で)棋士としてまだまだこれからという中でいただくのがいいのかという葛藤もありましたが、囲碁界から選んでいただけるというのはすごくありがたいなというのは率直にありました。

(Q)師匠の石井邦生九段はどんな存在ですか?

(A)プロを目指すきっかけ、自分の基礎になるようなものをすべて作っていただいた方。碁だけでなく人間的にも模範となる、本当に尊敬できる先生。(出会いがなければ)少なくとも今の自分はないということは断言できます。

(Q)趣味や気分転換の方法は?

(A)スポーツ観戦。テレビですが、野球やテニス、ボクシングとかを見るのは結構好きです。あとは、対局が終わった後に親しい棋士と少しお酒を飲みながら話したりするのは、リラックスの時間です。

(Q)一日の過ごし方は?

(A)20代の頃とはちょっと違うので、休む部分と研究にあてる部分のバランスとか、いろいろ模索しているところです。対局やスケジュールに少し余裕があるときは研究を深めてアイデアをストックし、本当に忙しくなってきたら、研究もしますが、コンディションを整える方に比重を置く感じです。

一日のスケジュールがしっかり決まっているわけではなく、どちらかというと午前中に研究をして、午後はのんびり過ごすというか、子供(3歳)の相手や運動などに時間をあてています。自分は集中型で、長く研究するタイプではありません。

(Q)服装の好みが変わりましたか?

(A)最初のタイトル戦に出た19歳のときから、15年ぐらいずっと同じ仕立て屋さんで作ってもらっています。ある程度ふつうのものは作っているので、どうせ作るなら若干冒険してみようかと。でもまあ、自分の意見というより、妻だったり、担当の方だったりに、言われるがまま、勧められるがまま(笑)。僕自身はこだわりは全然ないです。

いやま・ゆうた 平成元年、大阪府東大阪市生まれ。5歳で囲碁を覚える。14年、中学1年でプロ入り。21年に20歳4カ月で当時の史上最年少名人に。25年、国際棋戦のテレビ囲碁アジア選手権で優勝。28年、囲碁界で史上初となる七大タイトルを独占。29年にも2度目の七冠を達成し、30年に国民栄誉賞を受賞。タイトル獲得は歴代2位の通算74期。うち七大タイトルは59期で最多。石井邦生九段門下。日本棋院関西総本部所属。

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