「多様性の社会」において、コミュニケーションはどのような役割を果たすのか。

生物学者の池田清彦さんの著書『多様性バカ 矛盾と偽善が蔓延する日本への警告』(扶桑社新書)では、真のコミュニケーションは自分や相手が「変わること」であり、相手の意見をやり込めたりすることではないと述べている。

双方が発信することで、それによって自分や相手も変わることが本来のコミュニケーションだといい、それを理解している人は、自分とは異なる人とのやりとりに面白さを感じられるという。

最後は、コミュニケーションが防ぐ手段となる、ハラスメント加害者にならないためのコツについて一部抜粋・再編集して紹介する。

ハラスメントの原因は一方的な発信

多様性を尊重する社会では、いろいろな個性や感性の存在を認めることも求められる。

近年は、あらゆるものがハラスメントの対象になっており、たとえ自分にその気がなかったとしても、また、ほかの人と同じように接しているつもりでいても、相手の感性次第ではいつ訴えられるかわからない。

例えば会社であれば、個々人の個性や感性を踏まえて対処の方法を変えることが上司としての力量だと言えるのだろうが、それはなかなかハードルが高い。

個性や感性はそれこそ千差万別で、最近は「これはハラスメントだ!」と訴えて、相手を陥れる「偽装ハラスメント」のようなことも起きているので、とにかく地雷を踏まないようにと、日々戦々恐々としているという人も多いのではないだろうか。

明らかな上下関係があるとハラスメントが起こりやすい(画像:イメージ)
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しかし、自分より立場が下の人が、自分に言い返せるような対称性さえ守っていれば、いろんなハラスメントで訴えられるようなことにはならないだろうと私は思う。

多くのハラスメントというのは、そこに明らかな上下関係があって、立場が下の人は上の人に言い返したり、要求を拒否することが簡単にはできないという状況があるにもかかわらず、立場が上の人が下の人に好き勝手なことを言ったりやったりすることから起こるものであるからだ。

つまり、多くの場合のハラスメントは、結局のところは一方的な発信に起因している。

だとすれば、それを防ぐ手段となるのもコミュニケーションである。

互いの立場がどうであれ、自分から何かを発信して、相手からも何かを発信されて、それによって自分も相手も変わっていく、という真のかたちでのコミュニケーションを図ることのほうが、無数にある個性や感性を探り当てる努力をすることより、はるかに簡単なのではないかと思う。

「尊重」と「憐れみ」は対極の行為

基本的に「同一性は等価である」という前提さえ守っていれば、自分とは違う同一性の人たちのことを無理に理解しようとする必要はないことはすでに述べた。

例えば性的マイノリティの人たちや障害者に配慮しなければ、と考える人は多いけれど、弱者への憐れみの気持ちをマイノリティを尊重することと勘違いすると、これは「多様性の尊重」からは程遠い話になる。

性的マイノリティも、あるいは障害者も、性的マジョリティや健常者となるべく同等な生活や行動を保障することを公的システムとして構築することが本当の意味での「多様性の尊重」なのであって、憐れみをかけることはそれとは対極の行為なのだ。

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