あの時、後ろを振り返っていればよかった。どうして助けられなかったのか。能登半島を襲った記録的な豪雨で、愛する人は激しい川の水にのみ込まれた。男性は妻に向かって呼びかける。「どこに行ったんだよ」
石川県能登町の山あいにある北河内地区。谷野利一さん(71)の自宅すぐそばには河内川が流れている。川幅は2メートルほど、いつもは足がつかるくらいの穏やかな流れだった。
その川は豪雨で一変する。あふれ出た水は辺りの道路を覆った。「ゴー、ザー」。自宅前に茶色く濁った水が迫ってくる。
「車、ずらしてきて」。妻まち子さん(68)にそう言われた谷野さんは、車を高台に移動させようと近くの駐車場に向かった。
膝の高さにまで達していた川の水。大粒の雨水が体に打ち付け、流木が流れてくるのも見える。「足を取られないか、怖かった。すり足で一歩ずつ進んだ」
車を移動させると、長女が血相を変えて駆け寄って来た。「お母さんが外に出て、お父さんの後を付いていった。危ないから止めようとしたのに、もうおらんくなっていた」
すぐに助けを求めたが、住んでいる地区は土砂崩れで道路が寸断され、孤立状態になっていた。濁流にのみこまれた一帯。「もう、どうすることもできなかった」
まち子さんは地元の病院で働く看護師で、誰からも頼られるベテランだった。60歳で定年を迎えても「残ってほしい」と頼まれ、そのまま働き続けていた。
1カ月ほど前、谷野さんが田んぼの周りの草を刈っていると、手がしびれ、足にだるさを感じた。まち子さんに話すと、すぐに病院へ連れて行ってくれた。熱中症の疑いと診断され、「これで済んで良かったね」。やさしい言葉をかけてくれた。
仕事熱心で、いつも人を思いやってくれたまち子さん。そんな母の姿に憧れたのか、長男は同じ道に進み、長女も介護士として働いている。
まち子さんは来年70歳を迎え、仕事を辞めることを考えていた。運送会社のドライバーだった谷野さんは朝早くから夜遅くまで働き、夜勤があるまち子さんとは時間が合わないことも少なくなかった。
「仕事を辞めたら2人でゆっくりしようか」。好きなガーデニングに猫2匹の世話、他愛のない会話。2人の穏やかな時をまた楽しむはずだった。
でも、庭に植えた紫や赤色のアジサイは跡形もなくなり、2人の思い出すら流されてしまった。
「こんな別れ方になってしまうのか。あまりにも残酷です。夢にも思わなかった」
地区内は流木が折り重なり、大雨の爪痕が生々しい。消防隊員らが重機を使ってまち子さんを捜している。両手を握りしめ、その様子を見守る。「早く見つかってほしい」。願うのは一つだけだ。【島袋太輔】
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