58年前に逮捕された袴田巌さんにようやく再審無罪判決が言い渡された。事件が残した教訓を検証する。
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静岡県警清水署の取調室は近くに幹線道路が走っていた。防音設備が整っておらず、時折届く車の走行音が会話の邪魔をした。
広さ8畳の空間で、当時30歳だった袴田巌さん(88)は警察官と向き合っていた。
「ほんとに無関係だよ」
「なぜ殺さなきゃいけないんだよ」
4人を殺害した容疑で逮捕された1966年8月18日。袴田さんは繰り返し「ぬれぎぬ」を訴えたが、警察官は聞く耳を持たなかった。
殺害されたのは、袴田さんが勤務するみそ製造会社の専務一家4人だった。
現場の状況から金品の強奪目的だったことが疑われた。会社の従業員で、アリバイがなく、手の指に傷があるとして、程なく袴田さんが捜査線上に浮上した。
静岡県警は状況証拠を積み重ねて逮捕に踏み切った。ただ、「絶対的な証拠はなかった」(捜査に関わった元警察官)。
取調室に便器を持ち込み…
県警が後に捜査の経緯をまとめた記録(68年発行)には、こんな記述がある。「うっかりコップに水を一杯やったところ、しおれていた袴田は生気を取り戻し、平常に戻ってしまった」
県警は自白を得ようと躍起になっていた。容疑を認めない袴田さんへの追及は苛烈さを増す。
「意気地のねえ弱虫だな、てめえは」
「……」
「悪いと思ってんのか、おまえは、袴田。返事をしろ。聞こえないか?」
「聞こえます」
「てめえのやったことを、おまえ、ちっとは反省してんのか?」
逮捕から17日後、身柄拘束の期限である勾留満期が5日後に迫った9月4日。袴田さんはトイレに行きたいと申し出たが、警察官は便器を取調室に持ち込み、その場で用を足させた。
この日の取り調べは16時間を超えた。
「自白」と矛盾する物的証拠
2日後の9月6日。
「殺したのは私です。誠にすみませんでした。パジャマ姿のままで(中略)ナイフを持って行きました」
袴田さんは「自白」し、供述調書にサインした。
66年11月に公判が始まると、袴田さんは無罪の主張に転じた。検察側と弁護側の攻防が続く中、みそ工場のみそタンクから血痕の付いた「5点の衣類」が見つかった。
「自白」を頼りに、犯行着衣はパジャマとしていた検察側は、5点の衣類こそが犯行時の服装だったと手のひらを返した。
「自白の獲得にきゅうきゅうとして、物的証拠の捜査を怠った。厳しく批判、反省されなければならない」。68年9月、袴田さんに死刑を言い渡した静岡地裁ですら、当時の県警の取り調べには異例の注文を付けている。
「検察なめんなよ」
自分に不利益な供述をするはずがない――。自白は「証拠の王様」と呼ばれてきた。現代の捜査ではDNA型鑑定や防犯カメラによる追尾、デジタルデータ解析がものをいう。密室の取調室で「自白」を誘導する手法は過去の悪弊と思われがちだが、決してそうではない。
栃木県足利市で90年、4歳女児が殺害された「足利事件」。県警は翌91年、菅家利和さんから任意で事情聴取し、「自白を得た」として逮捕。2000年に無期懲役が確定した。
しかし、再審請求審で逮捕の決め手とされたDNA型鑑定が間違っていたことが判明し、10年3月、再審で無罪とされた。科学捜査を下地に、捜査官が虚偽自白を迫っていた構図が浮かぶ。
「なんで娘を助けられなかったんや」「人の心、母親の心を失ったらあかん」
大阪市東住吉区で95年に小学6年の女児(当時11歳)が焼死した火災でも自白の強要が裁判所によって認められている。
保険金目的の放火殺人だったとして母親は無期懲役とされたが、再審で無罪が確定。事件の国家賠償訴訟で、大阪地裁は22年、母親に女児の写真を見せながら、大声で長時間の取り調べを続けた府警の捜査について「母親としての情愛を巧みに利用した。明らかに違法」と批判した。
社会通念を超えた取り調べが検察でも行われているのではないかという疑念も浮かぶ。「ふざけるな」「検察なめんなよ」。取り調べで机をたたき、容疑者を大声で罵倒したとして、24年8月、大阪地検特捜部(当時)の検事が特別公務員暴行陵虐罪で裁かれることが決まった。
成城大の指宿信教授(刑事訴訟法)は「多くの裁判では、なおも自白に重きを置いている。捜査機関が自白を取ろうと躍起になる構図は今も昔も変わっていない」と指摘する。【巽賢司】
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