日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は10日、ノルウェー・オスロでノーベル平和賞の授賞式に臨む。被爆体験をもとに草の根で続けてきた活動は約70年に及ぶ。「核のタブー」確立に貢献した先人たちへの思いを胸に、栄誉の式典で「核なき世界」の実現を国際社会に訴える。
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「相談する人がいないことに寂しく、悔しい思いをした。何十人、何百人と一緒に歩いてきた」。10日の授賞式で演説する代表委員の田中熙巳さん(92)は、原稿を準備中、亡くなった仲間が脳裏に浮かび、喪失感に襲われた。
演説の持ち時間は約20分。長崎で被爆した自身の体験に加え、約70年にわたる日本被団協の足跡に時間を割くという。
広島、長崎の被爆者でつくる日本被団協は1956年の結成以来、被爆証言に象徴される草の根活動を展開。核使用は道徳的に許されないとする規範「核のタブー」確立に大きく貢献した。ノーベル賞委員会に高く評価された実績は、草創期から連なる先人らの手によって培われてきた。
日本被団協の結成に尽力した故山口仙二さんもその一人だ。14歳のときに長崎で被爆し、治療を繰り返しながら活動を続けた。
1982年には代表委員として、冷戦下の米ニューヨークで開かれた国連の軍縮特別総会に参加。被爆者として初めて国連で演説し「ノーモア・ヒバクシャ」と訴えた。その力強いメッセージは、核兵器がもたらす破滅的な結末への警鐘を鳴らした。
田中さんは日本被団協で事務局長などを歴任し、組織運営を支えた。2015年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、13年に亡くなった山口さんの遺志を継ぎ「ノーモア」と呼びかけた。
原爆の熱線で焼かれた自らをさらす「赤い背中の少年」の写真を掲げ、生涯証言を続けたのは、元代表委員の谷口稜曄さん(17年死去)。晩年、日本被団協の運動の先行きを憂慮し「被爆者がいなくなったとき、どのような世界になっていくのか」と語っていたのを、田中さんは忘れられない。
16年に広島でオバマ米大統領(当時)と向き合った坪井直さんは96歳で21年に亡くなるまで代表委員を務めた。口癖は「ネバーギブアップ」。被爆者の声を世界に訴え続けた。
被爆者運動を担ったのは、表舞台に立つリーダーだけではない。
生存者として人知れず自責の念を抱き、戦後社会で厳しい境遇に置かれた人々が胸中を明かしてきたことで、被害の実相が可視化されてきた。
NPO法人「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」(東京・千代田)の栗原淑江さん(77)は大学時代に被爆者の生活実態を調査して以来、半世紀にわたって被爆者運動に関わってきた。1980年から約11年間、日本被団協の事務局で働いた経験もある。支援者の一人として、授賞式の代表団に名を連ねる。
原爆投下から40年が過ぎた85年。日本被団協は大規模な被爆者調査を実施した。回答用紙には「自分の体がやけどして動けなかった」「目の前で死んだ人、傷ついて動けない人たちを、どうしても助けることができなったことが、今思い出しても悲しい」など、極限状態の記憶が赤裸々に記されていた。
栗原さんは「世代交代の時期にさしかかり、思いを明かした人もいる。膨大な量の証言が被爆の実相への理解を促し、被爆者の訴えに説得力を持たせた」と振り返る。
平和賞が決まってから、亡くなった被爆者や関係者ら約130人分の顔写真をまとめたパネル製作を発案した。式典終了後、たいまつを携えてオスロ市街地を練り歩く恒例行事で披露する。核なき世界の実現に向け、志半ばで亡くなった先人の姿を世界に知らしめたいと願う。
(桜田優樹、野呂清夏)
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