長距離レースならヒトはウマと互角に渡り合える。それほどの持久力をヒトはなぜ備えているのだろうか。(Photograph by Gerard Lacz, VWPics / Redux)

35歳のニコール・ティーニー氏の足は鉛のように重く、肺は呼吸するたびに焼けるようだった。50マイル(約80キロメートル)のウルトラマラソンは、最終コーナーにさしかかっていた。彼女は疲れ切っていたが、後続のランナーがすぐ後ろにいるので、ペースを落とすわけにはいかなかった。何しろこれは普通のレースではない。ティーニー氏の後ろを走っているのはヒトではなくウマだった。彼女はウマと競走しているのだ。

彼女にとってこのレースは、不可能とも思えることを成し遂げる5年間におよぶ努力の総仕上げだった。ゴールに近づく頃には「体は勝手に動いていた状態でした」と彼女は言う。「いちど立ち止まったら、再び走り出すのは難しいだろうと分かっていました」

彼女は走り続け、50マイル地点のテープを切った。彼女はやり遂げた。ウマに勝ったのだ。

ウマより速く走ったヒトはティーニー氏が最初ではない(ヒュー・ロブ氏は、ウェールズで毎年開催されているヒト対ウマのマラソン大会で初めて勝利したヒトだ)。だが、ここまでの道のりは平坦ではなかった。

マラソン選手だった彼女は5年前にてんかんと診断され、発作を抑える薬がなかなか見つからずに、競技の第一線から退くことを余儀なくされた。彼女にとって今回のレースは、単に持久力を競うものではなく、自分の体のコントロールを取り戻し、自分の心身の限界に挑むことだった。

そうはいっても、なぜヒトがウマに勝てたのだろうか?

ウルトラマラソンでゴールインするニコール・ティーニー氏。彼女は、スタミナと決意さえあれば、ヒトでも長距離レースでウマに勝てることを証明した。(Photograph by Logan Lambert)

なぜヒトは長距離走に適しているのか

てんかんと診断されたティーニー氏がウマと競走しようと考えるようになったきっかけは、クリストファー・マクドゥーガル氏の著書『BORN TO RUN 走るために生まれた ウルトラランナーVS人類最強の"走る民族"』(NHK出版)だった。彼女はこの本を読んで、米ハーバード大学の古人類学者ダニエル・リーバーマン氏が2004年に学術誌「ネイチャー」に発表した"持久走仮説(持久力追跡仮説)"を知った。

ヒトは、短い足指、長い脚、直立姿勢といった適応によって、長距離を走れるように進化したという。

「人体のほとんどすべての器官が、走ることに適応しています」とリーバーマン氏は説明する。さらに氏は、特に他の霊長類と比較して、ヒトの心血管系は筋肉に酸素を供給する効率が非常に高いと付け加える。そして最も重要なこととして、発汗という珍しい能力を持ったヒトは、熱を発散する能力が他のほとんどの動物よりも高いという。

持久走仮説では、ヒトがこのような特徴を持つようになった理由の1つとして、獲物が疲れ果てて動けなくなるまで追跡する持久的狩猟を、ヒト科の祖先が実践していたからとしている。ヒトは短距離走ではレイヨウに勝てないが、長距離なら勝てるのだ、と。

持久走仮説については、別の研究者がAIを使って歴史的記録をしらみつぶしに調べたところ、世界各地の民族誌から持久的狩猟に似た事例が400件も見つかったと、2024年5月に学術誌「nature human behaviour」に発表された。

走ることは、脳の進化にも関係しているかもしれない。米南カリフォルニア大学の生物科学教授であるデビッド・ライクレン氏は、ヒトは走ると認知課題をより効率よくこなせるようになり、認知能力が向上し、不安が軽減し、神経変性疾患の予防さえできると主張する。

「進化論的観点から見ると、これは理にかなっています」と氏は言う。「より自然な環境では、ヒトはしばしば食べ物を探し求めますが、そのためには身体を動かすことと脳を使うことを組み合わせる必要があるからです」

私たちの脳は、走っているときにオピオイド(麻薬や鎮痛剤として働く成分)や内因性カンナビノイド(大麻成分)を分泌し、いわゆる「ランナーズハイ」と呼ばれる状態を引き起こすと考えられている。ライクレイン氏は、私たちの祖先にとってこれらの化学物質は、走るという行為を魅力的に感じさせ、苦痛を感じても走り続ける大きな要因となっていた可能性があると主張する。

とはいえ誰もが持久走仮説を支持しているわけではない。

たしかにヒトは持久的運動をするようにできているが、ウオーキングはランニングよりも効率が良いので、ヒトは長距離を走るためではなく歩くために進化した可能性が高いと主張するのは、カナダ、サイモンフレーザー大学の博士研究員でトライアスロン選手でもあるアレクサンドラ・コーツ氏だ。

米ハーバー・UCLA医療センター、ルンドキスト研究所の研究員であるニコラス・ティラー氏も、ヒトが極端な長距離を走るために進化したとは考えていない。基本的に、運動は身体に良い影響を及ぼすが、身体を限界まで追い込むウルトラマラソンなどの極端な運動は、心血管系、骨格筋、腎臓などに悪影響を及ぼす可能性があることが研究によって示されているからだ。

ウルトラマラソンは心理的な闘い

ヒトが長距離を走るために進化してきたかどうかは別として、長距離走でウマに勝つことは持久的狩猟よりも難しい挑戦だ。

ほとんどの生物種は長距離走には適応していないが、コーツ氏によると、ウマは動物界でも屈指の持久力を備えているという。長距離走でウマに勝つことはヒトの持久力の高さを証明することであり、そのためには多くのトレーニングが必要だ。

コーツ氏によると、私たちが持久力トレーニングを始めると、細胞内のミトコンドリア(エネルギー生産に関わる小器官)の数が増えて、最大酸素摂取量(体が摂取できる酸素の最大量)が高くなる。細胞に酸素を運ぶため、心臓と筋肉の毛細血管が増えてくる。遅筋線維(ゆっくりと収縮し、効率的に呼吸を行う筋線維)も発達してくる。やがて心臓のサイズも大きくなり、より多くの筋肉を支えられるように体の組成も変化する。

とはいえトレーニングには限界がある。多くの持久系アスリートにとって、レースは身体的なエクササイズであると同時に精神的なエクササイズでもあるとティラー氏は言う。マラソン選手であっても、より長距離を走るウルトラマラソンに転向することは、大きな心理的挑戦となる。

2018年に学術誌「Psychology of Sport and Exercise」に発表された研究によると、ウルトラマラソンへの挑戦は、しばしば、自分の限界を試したいという心理的な動機と関連しているという。ほとんどのウルトラマラソン選手にとって、レースを完走するための重要な要素は、モチベーションと目標設定だ。

さらに、レースのパフォーマンスには心理状態が大きく影響することが、2018年に学術誌「Sport Psychologist」に掲載された研究によって示されている。自分への信頼とポジティブな自己対話は、レースを完走するのに必要なのだ。

「そのためには、体だけでなく心をコントロールする必要があるのです」とティーニー氏は言う。

文=Natalia Mesa/訳=三枝小夜子(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2024年11月4日公開)

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