最初、その霊長類の頭蓋骨の化石は、暖炉に飾る置物に過ぎなかった。だがまもなく、人類がどこでどのように進化してきたのかを解き明かす初の手がかりとなった。ただし、それは決して簡単な道のりではなかった。
1920年代、科学者たちは人類の先祖の化石を求め、世界中を探しまわっていた。人類がどこで進化したのかという疑問は未解決のままで、チャールズ・ダーウィンはアフリカの可能性があると述べていたものの、当時最も注目を集めていたのは、ヨーロッパとアジアだった。
1924年末、南アフリカで解剖学を学んでいたジョセフィン・サーモンズは、友人であり、鉱山会社ランド・マインズの社長の息子であるパット・アイゾットの家に飾られていた頭蓋骨に注目した。サーモンズの指導教官で、ヨハネスブルクのウィットウォーターズランド大学の教授レイモンド・ダートは、日頃からめずらしい化石を持ってくるよう勧めていたので、サーモンズはさっそく教授に頭蓋骨を見せることにした。
大学の化石コレクションを増やそうとしていたダートは、英国ロンドンで学んでいたときに、人類の先祖の化石を研究している解剖学者たちと交流していた。ダートは、この頭蓋骨が南アフリカで発見された点に特に興味を持った。
南アフリカにこのようなものがあるということは、霊長類の進化のほぼ完全な歴史が南アフリカの岩石から見つかるのではないか。
そう考えたダートは、この頭蓋骨が見つかったタウングという村の近くにある鉱山に注目した。ほかにも興味深い化石が見つかるかもしれないと考え、鉱山の管理者に標本の収集を頼んでみたところ、運良く数週間のうちに別の頭蓋骨が見つかった。
頭蓋骨の一部は石灰岩に覆われていたが、ダートは妻から借りて研いだ編み針を使って、慎重にそれをはがしていった。
中から現れた頭蓋骨は、驚くほど人間のものにそっくりで、小さな子どもの完全な顔と顎、そして自然な頭蓋腔(脳を入れる空間)が残されていた。その片側は脳の形を完全にとどめ、反対側はきれいな水晶で覆われていた。
反発を呼んだアフリカ起源説
村の名前にちなんで「タウング・チャイルド」と呼ばれるようになったこの化石には、人類の祖先にふさわしい多くの特徴があった。眼窩(がんか、眼球を入れる骨のくぼみ)から額のあたりは明らかに出っ張っており、非常に人間に近い。また、細長い顎に小さな犬歯がついている点も、人間にそっくりだ。
ダートは、タウング・チャイルドはダーウィンの説を補うもので、人類発祥の「ゆりかご」はアフリカであることを示す証拠だと主張した。
1920年代の科学界では、進化論こそ受け入れられていたが、主に科学的人種主義の影響から、人類の起源はアフリカであるというダーウィンの仮説は広がってはいなかった。
「当時の常識では、アフリカは遅れているとみなされていました。そんな場所が人類の起源であるはずがないと考えられていたのです」。人類学者で、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラー(探求者)であるケネイロエ・モロピアネ氏はそう話す。
ダートは、1925年2月7日付けで学術誌「ネイチャー」に、この化石についての論文を発表した。その際に、この化石を「アフリカ南部の類人猿」という意味のアウストラロピテクス・アフリカヌスと命名し、これこそが人類の祖先となる新たな属と種だと述べた。
アウストラロピテクスはヒトを除く現生の霊長類よりもかなり進化しており、ヒトと類人猿をつなぐ絶滅した生物だとダートは主張したが、科学界からはあまり歓迎されず、論文は強い抵抗に遭うことになった。
英国で見つかったもう一つの「人類の祖先」
アウストラロピテクスを認めれば、ヨーロッパやアジアが人類発祥の地ではないと認めることになる。さらに、解剖学や進化のパターンにおいてタウング・チャイルドと矛盾する化石も存在していた。
何より重要だったのは、「ピルトダウン人」と呼ばれていた化石だ。1912年に英国で見つかり、人類の祖先ではないかと考えられていた。大きな脳と類人猿のような顎をもつこの化石は、「人類はまず脳が進化し、二足歩行といった他の特徴が現れたのはその後だ」とする仮説を裏付けるものだとされていた。
「タウングはそれとは正反対でした」。そう話すのは、古人類学者のバーナード・ウッド氏だ。
タウング・チャイルドは、脊髄につながる穴が頭蓋骨の底にあり、直立歩行していたと示唆される。しかし、脳は小さいため、「脳のサイズではなく、直立歩行が進化の鍵となった」ことを示している。ピルトダウン人と比べると、類人猿とヒトの特徴が混在しているアウストラロピテクスは、それまでの定説を覆す存在だった。
英国の多くの一流科学者たちは、進化の系統におけるピルトダウン人の位置を支持していたため、ダートの発見は滑稽なものとみなされた。そのため、タウング・チャイルドは完全に人類の系統から外され、若いチンパンジーか何かだろうと扱われた。批判の急先鋒だった解剖学者のアーサー・キースは、アウストラロピテクスを人類の祖先とする考え方を「ばかげている」と評した。
その理由として公に議論されたのは、進化の特徴と幼児の特徴を取り違えている、化石の地質年代が不確かであるといったことだった。しかしその裏には、別の非科学的な理由も存在していた。
「自分たちにつながるものの起源がアフリカにあるという点が、彼らの世界観と一致しなかったのです」と、古人類学者のローレン・シュローダー氏は述べる。
ダートは、この化石について書いた250ページの原稿が認められず、落胆したが、それを引き出しにしまい込み、さらに研究を進めることにした。
あばかれた捏造
科学界でアウストラロピテクスに関する意見が大きく変わるまでには、それから数十年の月日が必要だった。ピルトダウン人を支持し、1925年にタウング・チャイルドについて「ばかげている」と言ったアーサー・キースは、1947年に「ダート教授は正しかった。私がまちがっていた」と認めた。
評価が一変した最大の理由は、ピルトダウン人が捏造だったとわかったことだ。1940年代にこの化石はなにかおかしいといううわさが広がり、1953年にはヒトの頭蓋とオランウータンの顎で作られたものであることが確認された。古く見せかけるため、意図的に傷やよごれまで付けられていた。
この一件によって、アフリカが科学的に注目され、化石が見つかるようになった。ダートの同僚だったロバート・ブルームは、タウング・チャイルドに触発され、南アフリカの鉱山と連携して研究を続けた。地下トンネルやダイナマイトで硬い岩を爆破する手法にも助けられ、ブルームは次々にアウストラロピテクスの化石を集めていった。
特に有名なのは、1947年に見つかった保存状態のよい成人の頭蓋骨で、これは「ミセス・プレス」と呼ばれるようになった。その数カ月後には、臀部と椎骨の一部が見つかり、アウストラロピテクスがまちがいなく直立歩行していたことがわかった。こうした発見が積み重なり、人類の起源を語るうえでアフリカは無視できない場所になった。
人類の祖先がアフリカにいたことが認められ、人類発祥の地はヨーロッパやアジアからアフリカに移った。同時にそれは、脳の大型化よりも直立歩行が先だったと認められることでもあった。
ルーシーの登場
ただし、見つかった化石は散発的で、20世紀後半になるまで、論争以外でアウストラロピテクスが注目されることはなかった。そして、タウング・チャイルドの発見から50年後、「ルーシー」と呼ばれることになる有名な化石が見つかった。
このルーシーには、アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)という新たな種名が与えられた。400万年前から200万年前に生息し、やがてヒト属(ホモ属)につながったと考えられるこの種は、進化の系統において重要な位置を占めることになった。
この発見に関しては、とりたてて議論の的になることはなかった。すでにアフリカが注目されていたので、そこでこの化石が見つかったことに驚く人はいなかったからだ。直立歩行し、かなり小さな脳を持っていることも、当然と受けとめられた。ルーシーの発見こそ、小さな子ども「タウング・チャイルド」の頭蓋骨から始まった20世紀の物語の最後のピースと言えるだろう。
タウング・チャイルドは一般にはそれほど有名ではないが、ルーシーやその後の発見の土台となった。1970年代にエチオピアの丘陵でルーシーの骨が見つかるころには、「十分に土壌が耕され、肥料が撒かれていました」とウッド氏は言う。「あとは種さえまけば、自然に育つ状態だったのです」。タウング・チャイルドが歩いたからこそ、ルーシーが走れるようになったというわけだ。
タウング・チャイルドが認められるまでには、数十年が必要だった。それでも、最後に笑ったのはダートだった。ダートは1959年、『ミッシング・リンクの謎:人類の起源をさぐる』と名付けた著書で、この物語をふり返っている。
文=Paige Madison/訳=鈴木和博(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2024年11月16日公開)
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。