「仙台放送ライブニュースイット!」では東日本大震災の月命日にあたる毎月11日に、震災で大切な人を亡くした方にお話を伺っています。6月11日は、石巻市の木村美輝さんです。漁師としての誇りを胸に、町の未来を見据えて歩みを進めています。

牡鹿半島の小渕浜。木村美輝さん(54)はこの港でカキの養殖を営む漁師です。

木村美輝さん
「やっぱりうちらは作ってる生産者なんで食べておいしいって言われるのが一番だよね。これに越したことはない」

小渕浜の海はプランクトンの繁殖が盛んで栄養が豊富なため、大きくておいしいカキが育つといいます。浜仕事をともにするのは、地元のボランティアたち。集まれば、自然と和気あいあいとした雰囲気が広がります。
家族同然の時間を過ごし、お互いがなくてはならない存在です。

木村美輝さん
「(牡鹿半島で)仕事する人たちって少ねえからね、今。若い世代も少ないし、もちろん過疎化で手伝ってくれる人たちも少なくなってきてっから、手伝ってもらうだけでもありがたいっちゃ」

三十年以上もの間、海からの恩恵を生業に生活してきた木村さん。一方で、海は大切な家族を失ったあの日の記憶も呼び起こします。

木村美輝さん
「海眺めて思うことか…やっぱり震災の時のことは思うさね」

13年前の3月11日。当時車で外出していた妻の弘美さん(当時40歳)と長男・将也さん(当時16歳)は避難中に津波にあい、帰らぬ人となりました。

木村美輝さん
「手を合わせるとやっぱり震災の時を思い出すし生きていればなっていうのはあるよ。息子なんか16歳。彼女もできたのかなとか、結婚してたのかなとか思う部分もあるし…」

4人の子どもたちの中で一番年上だった長男・将也さん。好奇心旺盛な性格でありながら、弟たちの面倒見もよく、頼れるお兄ちゃんでした。

木村美輝さん
「将也は一番小さいときはやんちゃだった。いたずら小僧だったり。大きくなってからは、やっぱりお兄ちゃんっていうのはあったな。いろいろ我慢するところもあったと思うけど、でも人の面倒もよく見ていたからな。子どもたちの面倒見がよかった」

漁師の夫を支えながら、毎朝早起きで家事と育児に専念していた弘美さん。出会った瞬間から、木村さんは結婚することを確信していたといいます。

木村美輝さん
「会ってすぐだったんでないかな。この人だって思っとった。何やるにしてもやっぱり奥さんにサポートしてもらうし、相談役でもあるし、自分が何かできねえときにやっぱこう後押ししてくれるっつうのも奥さんだったしな。やっぱその点は本当助けられたさ」

最愛のパートナーを失ってなお、木村さんに下を向く時間はありませんでした。

木村美輝さん「ここまで立ち上がるまで大変だったかな。子どもたちいたから頑張れたっていうのもあっけど。下を向いている暇もねえくらい忙しかったのもあるし…」

あの日から駆け抜けた13年。今年、次女・汐里さんが専門学校を卒業し、子どもたち全員が社会人になりました。

木村美輝さん
「一つ肩の荷が降りたさな、一番下の娘が20歳だから肩の荷は楽になったかな」

11日朝、スーツ姿で木村さんが向かったのは海ではありません。着いた先は石巻市役所。木村さんは2年前の選挙で、石巻市議会議員になったのです。

木村美輝さん
「震災からの復興を遂げて、さらに自分たちが何ができるのかとか、子や孫の世代に何を残していけるかっていうのを考えたのが一つのきっかけ」

それまで全く政治とは縁がなかったといいますが、漁業者の視点から「持続的な街づくり」に携わりたいと新たな世界に飛び込みました。

木村美輝さん
「市民の声をしっかり聞きながら偏った考えじゃなくて、いいものはいい。悪いものは悪いってしっかり言えるようなものを目指してきたいかな」

議員の仕事は全てが手探りながら精力的に活動する木村さん。それでも、海の仕事と両立させることに迷いはありません。

木村美輝さん
「やっぱり海って…うちらから言えば宝みてえなものさな。議員になってそっちのこと
だけしてしまうとさ、なんか違うんだよね。俺のイメージしてるのとは。自分の今(漁師)の仕事をしっかりした上で、議員の仕事もきちんとしていくことで意義があるなっていうのは。じゃねえと分かんねえっちゃ、みんなの気持ちって。上さあがっていって5年10年ってたって、議員生活が長くなってきてあぐらかくようになってしまったときにはもう辞めっぺなっていう気持ちもあるし、その前にはやることはしっかりやんなきゃねえなって」

漁師と市議の「二刀流」で、これからも牡鹿の街で歩み続けます。

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