江戸時代から続く日本最古の金魚の産地として知られる奈良県大和郡山市。今も金魚の養殖はさかんで、とりわけ金魚すくい用の「小赤」は、令和5年度の販売実績が約4330万匹と全国1位を誇る。まちを歩けば至るところに金魚があふれ、毎年夏には全国金魚すくい選手権大会も開かれるなど、なくてはならない文化としても息づいている。
あちこちに
4月7日まで同市の郡山城跡で開かれた「大和郡山お城まつり」。市内の金魚生産者らでつくる県郡山金魚漁業協同組合による金魚品種展が行われ、朱色や墨色などが混ざった雑色の「朱文金」やずんぐりとした「琉金」などさまざまな金魚が来場者を魅了していた。同市に住む横山空峯(たかね)さん(11)と弟の希絃(きいと)さん(8)は、「金魚はかわいいので大好き」と話す。
市内の養殖場では、毎年3月下旬から5月にかけて金魚が水草の人工魚巣で卵を産む。卵からかえった幼魚は1週間から10日ほどで放流され、6月には成魚として出荷時期を迎える。
8月には全国金魚すくい選手権大会も開かれ、全国から腕自慢が集まる。風情あふれる城下町を歩けばマンホールや照明灯など金魚をモチーフにしたものが至るところに並び、まさにまごうことなき「金魚のまち」だが、その歴史は古い。
300年の歴史
享保9(1724)年に郡山藩主となった柳沢吉里が、金魚養殖の職人を連れてきたことが始まりで、幕末の頃は養殖が藩士の副業として生活を支えた。明治維新後は元郡山藩士の小松春鄰(はるちか)が柳沢家のサポートを受け、仕事を失った元藩士や農家に養殖の技術を教えたことで、生産性と技術が向上し、郡山の金魚が全国に広がったとされる。
郡山城史跡・柳沢文庫保存会の柳沢保徳副理事長(75)は「小松春鄰は、当時の国策であった養蚕ではなく、金魚養殖に覚悟を決めて乗り出した勇気ある人たちを支えたいと思ったはず」と推察する。
時は流れ、最後の郡山藩主となった柳沢保申(やすのぶ)が、邸宅内に金魚の遊覧場を作り、賓客らに郡山の金魚を広く紹介するなど普及に尽力。娘婿の保恵は郡山の金魚を海外に向けて英語で紹介し、明治40年からは神戸港からアメリカやカナダに出荷する道筋をつけた。
昭和40年ごろには、市内の金魚養殖の生産量はピークに。農林水産省の漁業センサスでは、漁場の大きさは総面積約160ヘクタール、県郡山金魚漁業協同組合の組合員は約120人、販売数は1億匹を超えたという。
コロナ禍で苦境
ただ、現在は組合員の高齢化が進み、後継者不足から家業を畳む人が増えるとともに、漁場も約50ヘクタールへと減少し、組合員も21人と最盛期の6分の1まで減った。
一方で生産者を取り巻く環境は厳しさを増している。新型コロナウイルス下の令和2~4年には全国の祭りが自粛され、金魚すくいの小赤の出荷が大幅に減った。カモやサギといった金魚を狙う鳥害も増加の一途をたどる。さらに昨年は春の産卵がうまくいかず、金魚が思うように増えていない。そこに餌代の高騰が追い打ちをかける。
県郡山金魚漁業協同組合によると、小赤は例年なら卸売価格は1匹15円ほどだが、昨年から26円前後と高騰が続いている。
市内で金魚すくい道場「こちくや」を営む下村康氏さん(79)は金魚高騰に頭を悩ましながら、「金魚すくいは日本の伝統文化。その文化を絶やさず、大事にしたい。今後も市が誇る金魚すくいの普及の一翼を担いたい」と力を込める。佐野憲司組合長(62)は「金魚すくいを楽しみにしている人たちのためにも、産卵がうまくいってほしい。今年は金魚伝来300年。節目の年にふさわしいよう、養魚に努めたい」と話した。(木村郁子)
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