大規模な採掘が行われた佐渡金山の「道遊の割戸」=新潟県佐渡市(筆者撮影)

先々月の本欄では島根県の石見銀山に行った(二月二十八日付)。いまに残る坑道の暗さ、狭さ、寒さに往時の人々のありさまがしのばれると同時に、坑道の外、灰色の雲から雪ふりしきる山あいの道をてくてく歩く体験そのものがまた貴重な文化財だったというような話だった。

あれは豊かな時間だった。となれば銀の次は金というわけで、佐渡金山に行きたくなるのは理の当然。私は三月の或る日、新潟港でジェットフォイルに乗り、本州を離れた。こういう場合は時を置かないほうがいい。

佐渡金山は、何しろ有名な観光地である。天気もよかった。よほど人出が多いかと思いきや、誰もいなかったのは、春休み前の平日だったからか。

奇しくも石見銀山のときとおなじ独占的な状態になったわけである。見学できる坑道は二本。ひとつは江戸時代までに掘られた宗太夫坑、もうひとつは明治以降に掘られた道遊坑で、まずは江戸時代のほうに潜り込む。

宗太夫坑は、石見銀山の龍源寺間歩(間歩は坑道の意)と比べるとはるかに大きい。あっちが亀のように頭をひっこめ、肩をすくめて進む「穴」だとすれば、こっちは両手両足を広げて立つこともできる「洞窟」である。

どちらも大体おなじ時代のものであることを考えると、おどろくべき差といえる。岩盤の質に差があるのか、それとも掘削にしたがう労働者の人数のちがいが原因なのかはわからないが、これはもう一本のほう、明治以降の道遊坑になるとさらに顕著で、その坑道の大きさときたら、何とまあ線路を引いて電池式のトロッコまで通したほどなのである。

そう、佐渡金山とは日本を代表する近代遺産でもあるのだ。だからその岩肌も、つるりつるりとコンクリートで固められている部分が多く、「穴」よりも「洞窟」よりも「トンネル」そのもの。

もちろん機械で掘削したのだろう。すなわち佐渡金山は、すでにして江戸時代にさんざん掘られてもなお余力充分だったわけで、これもまた、石見銀山が明治以降ほとんど産出を止めたことと好対照である。佐渡のほうがスケールが大きいと言うこともできるかもしれないが、それだけに石見のほうが枯淡というか、日本的な「わび」「さび」の境地に近いとも言える。

「金無垢」に対する「いぶし銀」。私たちが金属としての両者に受ける印象の違いがそっくりそのまま歴史に反映された恰好で、これはもちろん、多分に偶然だけれども、とにかく佐渡金山は、坑道を抜けたあとも何かと派手である。私は春の晴天の下、きらきら光る草原のひろがりを見たけれども、その草原の横には屋根つきの大きな車庫があって、例の電池式のトロッコが何台も停まっていたのである。

そのたたずまいは自然というか、無造作というか。もしも明日いきなり「操業再開!」と号令がかかったとしても一斉に走りだすことができそうな生々しさがあった。

併設された工場のなかの機械や什器も同様で、これはまあ実際、ほんの最近まで―平成元年(一九八九)まで―稼働していたからでもあるのかもしれないが、いずれにしろ私は、しんとした空気のなか、鳥の声を聞きながら、ゆっくりとトロッコの運転台の操作盤やら、工場内の黒い金庫の装飾やらを見ることができたのである。

佐渡金山は現在、ユネスコの世界文化遺産登録をめざしているという。いずれ登録されたときには、この屋外展示ももっと小ぎれいな、もっと管理の行き届いたものになるかもしれないが、そういう剝製めいたものの完成以前の、いわば生乾きのうちに接し得たのも一得といえようか。私は車庫と工場をひととおり見たあと、ふたたび草原へ出た。

さっき出たばかりの坑道のほうへ顔を向けた。坑道の背後には山があり、てっぺんが左右に割れている。

深々とVの字状になっていて、そのVの字がそっくり緑の木に覆われている。名づけて「道遊の割戸」、かつて人々が争って坑道を掘った結果こうなったものというが、最後にこんな写真映えする風景まで用意しているあたり、そう、佐渡金山はいかにも申し分のない観光地である。まったくこの点でもあの一般の民家と共存している石見銀山とは好対照…などと今回の文章は、なりゆき上、何だか金銀比価に終始してしまった。それもまた旅、ということにしたい。

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