『鉄道員(ぽっぽや)』『蒼穹の昴』など組織の中の個人の生きようを描き続けてきた作家の浅田次郎さん(57)が、現代小説としては7年ぶりの新作長編『ハッピー・リタイアメント』(幻冬舎)を刊行した。作品に込めた浅田さんの“幸福論”とは-。
≪作品の舞台は現代日本。定年目前のさえない財務官僚と自衛官が、それぞれの事情から、業務実体のない債権保証機関に天下りする。2人はあるきっかけで、幸せなリタイアのため、時効を過ぎた債権回収という仕事に取りかかる-≫
――示唆に富んだ設定と、奇抜な展開で一気に読ませます。着想のきっかけは
浅田 小説の「プロローグ」に書きましたが、自宅に三十数年前の借金取りがやってきたんです。あれはほぼ実話で、税理士に裏を取らせたんだけれども、ちゃんとした機関の人間だった。法的には時効の借金でしたが、引っ込みが着かなくなって、払ってしまった。それが悔しくて、小説で何とか取り返してやろうと思ったんです。
――2人の主人公はノンキャリアの公務員。ときおりオヤジギャグが飛び出すなどユーモアも効いています
浅田 ぼくの本質はお笑いですから(笑)。主人公2人は完全な想像ですが、50歳過ぎまで1カ所の職場に勤めた人間は、よほどダメでない限り、何か一つのことにはたけている。でも彼らは、キャリア・ノンキャリアという公務員独自のシステムのために出世できない。まだ日本には受験偏重の教育が残っていますが、これももとを正せばこの制度の弊害。恐らく、明治時代に仏の官僚制度から採用したものでしょうが、もとは士官学校を出た軍人が出世していく軍事機構から来ている。軍隊ではともかく、役所のこの制度は改善されるべきでしょう。
――公務員の天下りに対しては今、さまざまな批判もあります。作中で、日本の終身雇用と年功序列の問題点が描かれているのも印象的です
浅田 もちろん天下りはない方がいい。ただ日本の歴史をたどると、必然的に成立せざるを得なかったシステムでもあって、その仕組みを描きたかった。制度を変えるためには、意識的な改革が必要でしょうね。いつまでも仕事しようとせず、遊んで消費する楽しい老後を送ろうという意識改革です。明治維新は江戸時代の否定から始まりました。私たちはその地続きで生きていて、今140年くらい続いている。江戸は、大した騒動も戦争もなく260年も続いた太平の歴史です。当時はリタイアも早く、40代で引退して子供に相続させて、後は好きなことをするのが人生のサイクルだった。また、当時は250もの藩がありました。昨今、道州制論議が盛んですが、日本にはあるいは、江戸時代くらい区画が多い方が合っているかもしれない。今は明治のように、単に欧米をまねればいい時代ではありません。歴史を再検討する意味は大きいでしょう。
――作中の天下り先組織は、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策によって設立されたという設定です
浅田 大きな例は日本国憲法と自衛隊ですが、GHQの呪縛(じゅばく)はまだ残っています。日本人は国民性で、既成事実を重視する。本音ではおかしいと思っていても、時間が積み重なると良くも悪くも否定できない。例えば自衛隊の存在は、憲法を否定しないのであれば、憲法解釈の限界をとっくに超えている。なのにいまなお軍隊ではないと言い張るのはやはりおかしい。でももう60年以上もそれで続いてきて、既成事実となっていて、いまさら「自衛隊は軍隊」だと言うのも不自然。本来なら何十年も前に決着を付けていなければいけないことです。
――「戦後」も還暦を過ぎました。どうリタイアするか、多くの日本人にとっての関心事だと思います
浅田 基本的に、人は年を取ったら悠々自適に遊ぶべきです。もちろん幸福すべてはお金で買えるわけではない。小説に、いつまでも権力や金に固執する矢島という人物が出てきますが、彼はストレスの塊で、不幸な人生の象徴。彼を不幸と見切った主人公が目覚めるという小説なのです。仕事をすることに生きがいを見いだすのは否定しませんが、それだけでなく、趣味に生きるとか、本当にやりたいことをするのが本当の“仕事”だと思います。30、40年も勤めてきた惰性だけで働くのは貧しいでしょう。
(三品貴志)
浅田次郎
あさだじろう 昭和26年、東京都生まれ、57歳。自衛官、会社経営などを経て平成3年に作家デビュー。現代小説から歴史小説まで旺盛な創作活動で、『地下鉄(メトロ)に乗って』(吉川英治文学新人賞)、『鉄道員(ぽっぽや)』(直木賞)、『壬生義士伝』(柴田錬三郎賞)、『お腹召しませ』(中央公論文芸賞、司馬遼太郎賞)、『中原の虹』(吉川英治文学賞)など数多くの賞を受けている。
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