全国のひとり親世帯は約134万世帯。そのうち父子世帯、いわゆるシングルファザーの割合は少なく、約14万8000世帯だ(令和3年度全国ひとり親世帯等調査)。

浄土宗・龍岸寺住職の池口龍法さんもその1人。2人の子供を抱えながら「シングルファザー住職」としての日々を過ごしている。

池口さんは住職としてどう離婚と向き合っているのか。池口さんの著書『住職はシングルファザー』から一部抜粋・再編集して紹介する。

お坊さんの離婚はタブーなのか?

かくして、結婚生活は約9年で幕を閉じた。2018年の正月から、子供2人を男手ひとつで育てるという、夢想だにしなかった「シングルファザー住職」としての新しい生活が始まった。

離婚を経験した知人男性は「辛いのは離婚するまで。離婚したら明るい未来しかない」とアドバイスをくれた。さすが先達、的を射た表現である。しかし、彼らは離婚してもシングルファザーになったわけではなかった。子供を引き取った私の場合、長いトンネルの出口はまだはるか先のように感じられた。

涙を呑んで子供たちと暮らすことを断念した妻。子供たちのことを眼に入れても痛くないほど可愛がってくれていた妻の両親。他にも、結婚披露宴に列席して私たちのことを祝福し、その後も応援してくれてきた親戚や知人たち。

離婚によって傷つけることになった多くの人たちの顔が絶えず脳裏をよぎり、そのたびに自身の未熟さを思い知らされて、傷跡がズキズキと痛んだ。

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それだけではない。お寺にいると、お墓参りのために檀家さんもしょっちゅう訪ねてきて、何気ない挨拶のつもりで「奥さん最近見ないけど元気?」などと口にするから、傷口をさらにえぐり抜いていく。

「実は離婚したんです」と正直に答えると、「えっ!」と絶句して申し訳なさそうな顔をされる。あまりに悲しそうなので、私はなぜか「申し訳ありません」と謝罪する。檀家さんに悪気はないのは当然だ。だが、そのたびに心をグサグサ刺される思いがした。

不幸中の幸いだったのは、結婚披露宴をこぢんまりとした規模で行っていたことである。お寺の世界では、新郎新婦ともお寺関係者なら、今でも百人規模の披露宴が行われることがしょっちゅうである。スキンヘッドだらけの披露宴は威圧感が満載で、なんど経験しても慣れない。冒頭の挨拶でお坊さんたちが気の利いた法話をしたがるから、乾杯までに一時間以上かかった披露宴もあった。

もし私もたくさんのお坊さんの祝福を受け、その前で夫婦の愛を誓いあっていたら、離婚の後ろめたさは何倍にも増していただろう。離婚を報告する手間も相当なものがあったに違いない。

最近は住職が離婚するケースもよく聞くようになったが、世間一般ほど許容されているわけではなく、依然としてタブーのように思われているのは間違いない。「恥の文化」を醸成する日本らしいしがらみの構造が根強く残っているからだと思う。離婚しても言い出せずにひた隠しにしている人もいる。

眼の前のことを愚痴るより“向き合う”

私も離婚したことをひた隠しにしておくことが、お寺の旧習の中でとるべき振る舞いだったのかもしれない。そのほうが両親や親戚はホッとしたかもしれない。

しかし、この離婚の件に限らずであるが、私はわりとあけすけに自分の身に起こった悲劇を語るほうが、仏教徒らしい前向きな生き方だと思っている。

理由は2つある。

1つには、仏教的に言えば、後悔するべきは、離婚したということではなくて、離婚に至った原因だと考えるからだ。

仏教の世界の前提には、「自業自得」という因果応報のことわりがある。つまり、善い行いをすれば幸せがもたらされ(「善因楽果(ぜんいんらくか)」)、悪事にふければその罰は我が身にふりかかる(「悪因苦果(あくいんくか)」)。自分の行いの報いは必ず自分が受けなければならない。

もっとも、この自業自得の考え方に納得しない人もあるだろう。

「一生懸命働いてるオレよりロクに働かない社長の御曹司が先に出世するのはなぜだ」

「犯罪に手を染めても警察につかまっていないヤツもいるではないか」

しかし、仏教では幸不幸の結果がもたらされる時期は、今生(こんじょう)だとは言わない。来世かもしれないし、来来世かもしれないが、必ず結果はやってくるという。経典をいくら読んでも、そのタイミングについてはいつも「お釈迦さまのみが知っている」などと説かれ、うやむやにして煙に巻かれてしまう。だから、正直に言えば、私も因果応報を100パーセント信じ切っているわけではない。

ただ、他人のことはともかくとして、我が身を省みるなら、苦しい時はつい自分を正当化しがちだが、よくよく考えると己の非ばかりが思い当たる。離婚にしても、私の努力次第で回避できるタイミングはいくらもあったはずだ。

我が身の至らなさを「悪因」として反省すればこそ、その「悪因」からもたらされた「苦」が二度と起こらないように生き方が変わってくる。「自業自得」の考え方は、よりよく生きるための提案として、百パーセント合理的だと受け止めている。

だから、今目の前にあるシングルファザー生活の大変な部分だけ見て愚痴るよりは、めいっぱい向き合って家族が成長する糧にしようと思った。

共感の輪が広がれば…

そしてもう1つの理由としては、仏教では、人間には苦しみに共感しあう力があると考えるからである。

「慈悲」という仏教語は、実は、人を幸せにしたいという感情(「慈」)と、人の苦しみに寄り添いたいという感情(「悲」)をまとめた言葉であり、人間がこれらの感情を本来的に持っていることを説いている。その生活を包み隠さず語ることで、共感の輪が広がるなら、この社会が少しぐらい生きやすくなるだろうと信じている。

「シングルファザーはかくも大変なのか」とわかれば、離婚を回避して夫婦円満に暮らそうとする家庭があるかもしれない。あるいは、「僕でもシングルファザーをやれそうだ」と前向きに離婚へと進む父親もいるかもしれない。

いずれにしても、多くの人たちで苦しみを感じ合って、よりよい未来を作るように背中を押すのが、お坊さんのつとめだろうと思っている。

『住職はシングルファザー』(新潮新書)

池口龍法
僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。二児の父。1980(昭和55)年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』など。

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